おまけ小説
投稿日: 2024年11月10日
二
――受験記録――
第一戦は浦和明の星でした。はい、家から二時間以上かかります。ここにきて当たり前ですが受験際の親のサポートが一番大変なことに気づきました。
娘は受験日が初めてでしたが、親は実に受験申込時と受験日当日、結果発表後の延納手続きにと三回足を運んだことになります。親自身、大学に二時間かけて通っていたので、「あれ、これは慣れたら行けるかも」なんて、ここにご縁があったときには行ける、と自分で納得して気持ちを落ち着かせていました。普通は受験に慣れるためなのですが、何が起こるかわからないのが受験なので埼玉まで通うのもありなんだと思っていました。
本気でそう考えるようになったのは、第二戦の渋谷幕張に落ちた時でした。偏差値的には受かるライン(のはず)のところに落ちたのです。
渋幕の受験日は、親は仕事で朝、娘を会場まで送り届けたら速攻で会社に行き、帰りは娘一人で帰ってくるというプランでした。
一人で電車など乗ったことのない娘でしたので、一度だけ練習で都内の校舎から一人で帰ってこさせたことがありました。最寄りの駅でハラハラしながら待ち、駅の改札をてくてく歩いて出てきた娘を見たときは不覚にも涙があふれたものです。
その日は結局、祖父母が幕張まで迎えに行ってくれて家まで戻してくれました。お腹を壊すかもしれないのに途中で31のアイスクリームを食べたと聞いて、精神的にもタフな娘だと思いました。ですが、本人的には受かっているつもりだったのに、不合格でした。
合格発表時は娘は授業に出ていて、親は東京駅で時間をつぶして合格したのを確認したら幕張へ直行するつもりでの待機でした。
喫茶店で娘の受験番号がないことを確認したとき、浦和明の星に通うことを妄想していました。その日は、本人も私も「そんなもんだよね」的な感じで特に落ち込みを表に出すこともなく過ごしていましたが、塾の先生へ電話をしたときに、お叱りを受け(娘があまりにへらへらしているように思われたのでしょう)、電話口で泣き出してしまいました。
本命はそこじゃないから。勉強時間が増えるかしらと少し期待したものの、本番の二月まで小学校にも普通に通い、お互いに「いまさら」的な感覚で、いたって今までと同様の生活をしていました。
(親にはそう思えましたが、後日娘に聞くと、めちゃくちゃ勉強はしたそうです。)
それから怒涛の二月に入ります。とりあえず三日間、会社を休みました。スケジューリングは親の重要な仕事というのは散々言われていましたので、綿密に計画をたてました。
第三戦、桜蔭。ここも受験申込に朝から並ぶという時代でしたので、ほぼ始発で学校に向かいましたが、それでも50番目くらいでした。なぜ早い番号が欲しかったかというと、当日の午後、第四戦が控えていたからです。桜蔭は親も面接があったため、遅い番号だと夕方近くまでかかると言われていたのです。ここでも親が二人いたら片方が先に終わった子供と次へ向かえるのですが。幸いにも親の面接が終わっても余裕で移動できました。
第四戦は夕方受けたにも関わらず、その日の夜には合格発表でした。ここは本当の滑り止め(と言ってはいけない)でしたが、特待生で合格だったので、母子家庭としては心が揺れました。とにかく、埼玉まで通う道は消えました。泣きはらした夜から、やっと喜びのうちに眠ることができました。しかしジェットコースターはまだ終わっていませんでした。
二日目。この日から親の私の方がハードワークです。とても会社なんか行けません。第五戦受験会場へと娘を送り届け、第四戦へ出向き書類を受け取り、また戻って娘を迎えに行き、そのまま桜蔭の合格発表を待ちました。
結果は不合格でした。渋幕に落ちた時点でなんとなく予想はしていましたが、やはりショックでした。必死に頑張っていなかった、いや、頑張っていた。落ち込む娘をみていると、慰めが必要で、敗因は何かって実は親が面接に落ちたのではないかと思ったり。真実は娘の力が足りなかっただけなんでしょうけど、親の面接がある時点で親のせいにもできます。いえ、今でもたまに思い出すのですが、やっぱり親の面接が失敗だったのかもしれません。
しかし本命はそこじゃない。
落ち込んでいる場合じゃない、翌日には第六戦大本命の適性検査が待っています。どう気持ちを切り替えるかが勝負です。また塾の先生との電話でひとしきり泣いた後、幸いにも第五戦に合格していました。一転して歓喜。単純なので親子でほっとして眠りについたのを覚えています。
翌朝はすがすがしく、「よし、ラストだよ」「ありがとう」という会話で家を出ました。まさか「ありがとう」と言われるとは思っていなかったので、一瞬ドキッとしましたが、泣くのはまだ早いのでいつも通り、娘を送り届け、その足で第五戦の学校へ入学金を支払いに行きました。公立中高一貫校がダメだったら通うと決めていた学校だからです。そして浦和明の星と第四戦の学校に辞退の連絡をして、娘を迎えに行きました。
――公立中高一貫校の適性検査――
筆記テストの他に、グループディスカッション的なものがありました。正直、適性検査の対策は一切していませんでした。実のところは今までの試験とはまったく毛色の異なる内容でした。これが本当の地頭をみる検査だったのでしょう。
みんな出来たはずだから、受かったかどうかわからない。と娘も言っていました。ただ、公立だけに学校自体が地元の中学と雰囲気が同じで、トイレも汚くて、とぶつくさ言っていたので、なんだか嫌な予感はしていました。
合格発表は私立とは違い、一週間後だったので、私たちは二年間の塾通いから解放されてその週末にはすべての紙(模試などの)やテキストを処分しました。思い出に残しておく人もいるかもしれません。
娘の中では心はもう私立中学進学が確定しているようでしたが、親はまだ公立を諦めていません。私立と公立では学費が全く違います。問題は、この中学受験を通していつの間にか「どこでもいい」から、偏差値思考へと親子で洗脳されていたことにあります。
もともと公立中高一貫校へ行くつもりで始めた受検。適性検査。倍率も高く、近くの学校の偏差値が娘の値より十ポイント以上低くても、そこを目標にしてきました。そこしか範疇にありませんでした。今思えば、私の判断ミスだったのかもしれません。低いところではなく、筑波大学付属中学を受検していれば良かったと。そして落ちていれば私も納得していたかもしれません。
結果的に娘は合格していました。その瞬間、頭を抱えることになります。実は娘は合格でも不合格でも私立に通うと決めていました。絶望の淵からその学校に合格したときの喜びと感動、感謝の気持ち、思い入れ。
何度か公立の方がお金はかからないし、地元の中学とは違うということを話してきましたが、最後は娘の意志を尊重することになります。
後になってから親が決めた学校に不満が出てきたら親の責任にされてしまいますからね。自分がそこまでして望んだ学校に不満が有っても自己責任だからね。という半分の脅しとともに、公立中学は辞退することにしたのでした。
合格発表からしばらく放心していましたが、気を取り直して学校へ出向き、辞退の旨を伝えてきました。辞退する人が毎年、1-2人はいると言っても、まさか自分がそうするとは。よほど珍しいとみえて窓口の人が校長先生だか偉い人を呼びに行ってその偉い人が出てきてしまい、とても気まずい雰囲気で、「どこに進学されるんですか」など聞かれ、ああ、なんで受検してしまったんだろうと思いました。
ただ受験を辞退するのにも出向いて行かなければならなかったので、そんな時間もなかったし、落ちるかもしれないし、受かったらまた気が変わるかもしれないから受けておこうかという安易な気持ちでした。
女の子なら制服が可愛いからとか、もちろん偏差値高い学校へ入って良い大学に行きたいとか、志望理由はたくさんあるはずですが、我が家の娘は特に思い入れのある学校があったわけでもなく、どこでも良い状態。それが最終的にはトイレがキレイだからという(いや、どちらかというとトイレの汚い学校は嫌だという理由)おそらくそんな理由で選ぶ人はいないだろうという理由で、進学先を決めたのでした。
もちろん表向きは偏差値が高い方を選んだのですが。でも、理由なんてどうだっていいというのが結論。子供なんてどんな結末でもそれで終わりではないわけだし、その場所になんとなくでも居場所を見つけるものだと今は感じています。だからことあるごとに親としては公立を蹴ったことを後悔することになったのでした。
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