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シングルマザー卒業と独りよがり小説

おまけ小説

投稿日: 2024年11月10日


母子家庭だから落とされたのか?御三家に受からなかった言い訳ノンフィクション中学受験

 

第一志望とか第二志望とか滑り止めとかじゃなく、行きたいところだけ受験する。どこに行くかは受かってから考える。理想的な受験。現実はどこでもいい。あそこ以外の学校に行ければ。中学校だし。

 

母子家庭でも結果は出せる中学受験。
本当の意味での親子二人三脚 と書くと語弊があるかもしれない、なんにしても受けるのは本人だが、本人の地頭だけというわけにはいかない、塾の先生、学校の先生、友達、親以外の周りの人々、すべてが関わる でも家に戻ると正真正銘の二人。という意味。


目標は高く持つ?

地理的に行きやいところにいく。

滑り止めでも夢は夢。地元の中学に行きたくないならどこだっていい。それが目標だっていい。


甘く見ていた中学受験、終わってみれば甘かった。ゆるゆる受験。
 結局は本人のやる気次第。いや子供のせいにしてはいけない。
 模試の復習?やるわけない。だからファイリングなんて必要ない。某塾からたいそうなファイルをいただきましたが、結局使ってない。親がファイリングするって聞いて本人はやりもしない、二度と見返すこともない問題用紙なんて取っとく必要ないよね、と言い訳して放置して。穴あけパンチも。

 

 

――我が家の中学受験――


 リビングで勉強するのが良いと聞いて、うちもリビングに学習机を置きました。というと聞こえはいいですが、実際は勉強部屋なんてなかったし、リビングで勉強するしかありませんでした。

いくら家で勉強しないと言っても最低限のことはやっていたはず(と信じたい)。私は平日は十九時帰宅でしたので、いつも帰宅するとゲームをやっている娘の姿をみてキレていました。


 せめて親の帰宅時だけでも勉強していてほしかった。塾のある日はやっているから、と言う娘には毎晩24時くらいまで必死に勉強している子がいるなんて理解できなかったのかもしれません。


 勉強ができるできない(いわゆる地頭)は置いといて、勉強することが嫌いでない子供、に育てるところまでが親の役目だったのかもしれません。だって中学受験って結構難しいです。親は一応大学出ていますけど、正直、小学校の勉強はわからないです。忘れてます。勉強は学校と塾に任せるしかないのです。


 私は仕事で毎日五時には起床していました。なので夜は22時には寝たいです。まさか小学生の子供に勉強させておいて自分は寝るなんてことできません。一緒に22時までにはおやすみなさいです。疲れているときは21時には寝てました。


 娘には、とにかく絶対に「じもちゅう(­=地元の中学)」には行きたくないという思いだけはありましたので、「もうやめる」と言い出しても、それも聞き流すだけで良かったんです。結局、親子で「やめる」ことはできずに、最後まで走り切りました。走っていたかどうかは謎のままですが。

母子家庭の我が家にとって本当の二人三脚で困ったことといえば、土日の都内の塾までの送り迎えも誰とも分担できなかったことです。

行きはお父さん、帰りはお母さん、なんてわけにはいかないので、送迎で家と教室を二往復していました。子供が勉強している間、どこかで時間をつぶせるほどの気力も体力もありませんでした。休みの日ぐらい一日家でのんびりしたい。そんな親です。


 日曜の特別講習も、塾に言われるがまま当然に組み込まれていきました。あるあるですが、「うちは行かないです」なんて言う勇気も自信もなかったです。それに家であまり勉強しない子供はとにかく講習を受けさせてたほうが勉強します。

 

 

親が中学受験を考えたきっかけは、保育園の卒園式で子供たちがどこの小学校に行くかを宣言するときに、管轄の公立小学校へ行く子がほとんどの中で、数人が私立の付属小学校の名前を発表していたのです。その時初めて、「ああ、そういう進路もあるんだな」と、いわゆるお受験というものを知ったのでした。

家の近くに大学があって、付属の中高一貫校がありました。そこに入れば大学までエスカレーター。親としては楽ちん(経済面は考えていませんでした)だなと思ったのが最初です。それから、母子家庭で私一人の収入では中学から私立なんてありえないと、公立の中高一貫校について調べました。考えるのはタダです。


 娘が小学校四年の時に、近所の中学受験塾が力試し的な模試のチラシを我が家のポストにも入れてしまったのがきっかけでした。そこは公立の一貫校向けではありませんでしたが、興味本位で受けてみることになり、これもたまたま徒歩数分のところに校舎があったので幸い(いや。不幸の始まり?)でした。


 親にとっては、毎日夜21時くらいまで預かってくれて、しかも勉強まで教えてくれるところ。サービス満点の有料の学童なんかと変わらない。家で毎日ゲームされるくらいなら、という思いもありました。また本人も模試結果と先生方のお誘いにまんざらでもない感じで、素直に入塾を決めました。


 さあ、受験地獄へ突入です。と言っても実際はゆるゆるでしたし、地獄というほどではないと思っていました。
 ネットなどの情報で、中学受験がどれほど凄まじいものか、受験は親次第、なんて書かれているのを知っていたので、ある程度の覚悟はしていましたが。

 

所詮、働くシングルマザー。自分のことで精いっぱいなのが現実です。勉強なんてみてる暇はありません。テストや模試の整理やファイリングなども一切できませんでした。結果だけをみて一喜一憂してどこなら受けられるか。そんな日々でした。


 もちろん当初の志望校は、電車一本で行ける公立の中高一貫校です。偏差値的には余裕な感じでしたが、通っていた塾はいわゆる適性検査を扱う塾ではなかったので六年生になったらどうするか考えよう、という感じで放置していました。

そうです、親子で志望中学校もないまま、のんきに五年生を終えていました。もちろん、塾で受験をおすすめされていた学校はあります。完全に踊らされていた感はありますが、娘も「最高峰」とされる中学を受験することはモチベーション向上にもなりました。

目標を高く設定することは良いことです。受験料さえ払えば受験できます。万が一にも受かったらすごいじゃないですか。うちみたいに本命が公立中学だから考え得ることだったかもしれません。


 結局、五年生三学期になって適性検査専門の授業を取るという選択をせず、桜蔭中学校対策に特化した授業を取り、都内へ通い始めました。時折、親子で「私たちはなんで一時間もかけて都内の教室にきているのかね」と言い合いながら、適性検査とやらに受かるためだと思って通わせていたのが、いつの間にか桜蔭に合格するためという結論になっていました。やる気、が大事だと思ったからです。


 しかし、子供たちはともかく、親をみていると明らかに自分は毛色が違うという違和感はありました。この中に一人親家庭っているのだろうか。でもそんなの悟られないようにふるまうのに精一杯でした。実際にはほとんど誰とも関わることはありませんでしたが、一組だけ電車の中で同じバッグと出会い、メールアドレスを交換した方がいました。普段の教室は違うのであまりやりとりはしませんでしたが。その方はおそらく専業主婦で身なりもしっかりされていて、いかにも御三家に娘を通わせる親という上品な雰囲気のお母さまでした。


 余談ですが、

当時通っていた塾は模試の成績上位者にノートをくれたのですが、使わずに大事に取っておく娘だったので結局は受験が終わってしまい、落書き帳になったり、親がもらったり、今もあったりします。

使わなかったのは勉強していない証拠だと親は言うのですが、そこは本人の主張では、ただただもったいなくて使えなかったそうです。過去の栄光にすがっているようにもみえますが。


 先生の話をすると、うちの娘は親の言うことは聞かないくせに、先生には絶対服従だったので(要は物知りな先生のことが好きだった)、任せきりで正解でした。

親がバカだったこともあると思います。ふと親が二人いたらどちらかが見てやれるんだろうかと悩むふりもしましたが、時間が経つにつれそもそも地元中学でなければどこでもいい娘と、お金さえあればどこでもいい、という体裁の親。

先生に、ある程度失敗の経験もあってもいいけれど、絶対にどこかには受からせて行かせてやらなければいけないと(いうようなことを)言われ、適性検査は十人に一人しか受からない(寝てても受かると言われたような気もしますが)。

私立も本気で考えておいてくださいなんてことで受験校を決めました。

 


 あっという間に受験シーズンになったときには、早く終わってほしい一心でした。でも受験はいつかは終わってしまいます。
 まんまと受験列車に乗せられて、一月受験が始まりました。

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