小説1
投稿日: 2024年10月27日
タイムカプセルに何を入れたか、20歳の自分宛の手紙に何を書いたかなんて全く覚えていない。というか、そういうことをした記憶もないが、たいていどこの小学校もそんな感じのことはしたはずだ。忘れたころに自分からの手紙が届くなんてかなり面白い。
でも私のように20歳になるまでに何度も住む家が変わったような人間には、永遠に届かない。そもそも、生まれてから20歳になるまでずっと同じところで生活できる人、つまり実家が変わらない人なんてどれくらいの割合でいるのだろうか。成人式に出席できる人はおそらくそういう人だ。まだこの世界では大半を占めているのだろうか。ほとんど知り合いの居ない成人式なんて行く意味がまったくわからない。国民の義務なら出席もするのだろうが、その費用は是非とも税金で賄ってほしいものだ。袴や振袖のレンタル代もそのお金があれば社会人になってない人にとっては数年分の年金保険料くらいに匹敵するだろう。成人になったことを自覚してもらうために成人式をやるわけだが、本来の意味は当人たちにはまったく伝わっておらず、バカ騒ぎする者や権利だけを享受して酒を飲んだりする者、お祝いしてもらうだけしてもらったら、後は今まで通り自分はまだあなたの子供なんですと主張する。
毒親と言いながら、その毒親の元を離れない者。クソガキと言いながらいつまでも追い出せずにいる毒親。家族を縛り付ける絆は永遠になくならない。
自分宛の手紙。自分の夢が叶ったかどうか確認したり、今の自分の思いや生き様を見つめるきっかけとなるであろうその手紙は、役割を果たすことが出来ていないのが現状だ。
奇跡的に届いたとしても、中身が何もないのだから過去の自分のバカさ加減に幻滅する。いや、もしかしたら今の成長した自分に満足して自己肯定感が高まることもあるかもしれない。
とにかく、当人をどうこうする節目として成人式なんてするものではない。むしろ必要なのは20歳まで生かしてきた毒親たちをねぎらうことではないのか。死なせたりするのはその関係者のそれぞれの運命としか言えない部分もあるが、とにかく毒親だろうがなんだろうが子供を育て上げた人にはそのランクに合わせて相当の金銭の戻りがあってもおかしくない。医療費や学費をタダにするだけでは子供を産み育てた人が報われない。
元旦の静まり返ったこの街が好きだ。ほとんどの人が帰省して、人と車が激減する。隣からの騒音もない。いつまでも電池が切れない時計の針だけがコツコツと音をたてる。誰も居ないこの部屋でこれからまた1年、何事もなく過ごせますようにと祈ってから、仕事始めまでの数日
をカウントダウンする。それが恒例だが今年は違った。年賀状ならぬ手紙が届いたのだ。
私宛のその手紙の送り主は、私だった。手紙の転送ができたのだろうか。近年はまともに文字も書いていないので、それが自分の書いたものかも正直わからなかった。
「20歳のあなたへ
これを読んでいるということはとりあえず生きているのですね。よかった。
積もる話もあるので、きたる20**年3月*日に星商店へ来てください。待っています。」
星商店は小学校の目の前にあった文房具屋さんだ。覚えている。まだあるのだろうか。しかし、問題はそこではない。これは確かに私宛なのだが、きたる20**年、というのが今年なのだ。
なのに、20歳のあなたへ? 私は今年50歳だ。時計の音が消えた。
あれから随分と悩んだが、結局私はその文房具屋へ行ってみることにした。行ってみるといってもそこは田舎の山奥なので簡単には行けない。だが数日の休暇も意外と簡単にとれた。3月は残った有給休暇を消化する人が続出するので、取れなかったら諦めようと思っていた。あと数年で勤続30年を迎える私だ。仕事にそれなりに責任もある立場だ。やってることにはまったく興味も持てないまま無意味に過ごしてきた。自分はいったい何のために生きてきたのやら。だからこそ、あの手紙に素直に興味がわいた。誰の仕業か確かめなければ。
この歳になると季節はあっという間に過ぎる。隣に越してきたクソガキ達の奇声に舌打ちしながら夜を過ごし、また翌朝にはその声を聞く前に家を出る日々が始まった。そんな日々の中でも手紙は少なからず私に楽しみをくれた。旅行が待ち遠しいなんていつぶりだろうか。
春休みで良かった。学校のまわりを怪しい初老の女がうろうろしていたら面倒なことが起こる可能性が大きい。否、初老はとっくに過ぎた。50歳は知名、50歳で天から授かった使命に気づくとでもいうのだろうか。とにかく、手紙を書いた人物に会ってみたいという思いで私は幼少期に過ごした土地へ向かったのだった。
第二章 第三章