小説0
投稿日: 2025年2月15日
あいつがトイレから戻ってこないことに気づいたのは三十分以上経ってからだった。俺としたことが油断した。ボブに捜させようと声をかけると、彼女は先に帰ると言ってトイレに向かったようだった。
「だから帰ったんじゃないですかね。結構たいくつしていたようですよ。誰かさんが結局ほったらかしにしたせいですかね」
「俺に言わずに帰るわけがないだろう」
まったく。どこに行ったんだ。他の連中も集めて捜すように命じて、電話をかけた。
「ハロー」
「おい、お前じゃないよな」
サムが応答すると同時に言ったので動揺が出てしまったかもしれない。
「何かあったのか」
「居なくなった」
「どこだ」
また警察の世話になるのは気が引けたが、サムなら大丈夫だろう。とりあえず屋上に行ってみるか。また縁にぼけっと座っているかもしれない。そう思って上に向かうエレベータに乗り込んだ。階数ボタンを押そうと手を伸ばした時、わずかに血痕らしきものが付着していることに気づいた。なんだこれは。汚れか?じっと見ていると床にもそれらしきものがある。嫌な予感がした。
屋上には誰もいなかった。血痕もない。階段で下まで戻ったところでボブが走ってやってきた。
「ここのスタッフが、地下で怪しい人を見たそうです」
事務室に行くと女性スタッフが興奮して話し始めた。医者と名乗る男が血まみれの女性を抱えて病院に行くところだったという。血まみれだと?最悪だ。
「彼女はぐったりしていて意識はなかったようです」
「一体、何があったんだ」
パーティーが台無しになるといけないので静かに連れて行きますだと? 顔は血まみれで、腕からも出血していたようだった。どこを怪我していたのかはわからない。その医者が冷静だったのでたいした怪我ではないのかもしれないと思ったそうだ。
病院などに行くはずがない。サムにあいつの住居の場所を聞かなければ。スマホを取り出そうとしたらサムが到着した。同時に別のスタッフが現場の部屋を見つけた様だった。その部屋へ向かう途中でサムが仲間に電話して奴の家に走らせた。病院が把握している住所だから居ないと思うが、と言いながらエレベータ内の血痕を見つめた。
現場は医者が予約していた部屋だった。明らかに争った痕跡があり、血痕も十分すぎるほど散らばっていた。ソファにしみ込んだ大きな血痕を見ると本当に奴が大丈夫だと言うほど些細な怪我ではないだろうことはわかった。俺は頭を抱えた。サムに言わせると殺すことは絶対になさそうだが、本当に生きているのかもこれじゃ怪しい。殺す気がなくたって死んでしまうことは多々ある。
数時間後、彼女は行方不明なうえに血痕も彼女のものと判明した。どこの病院にもいない。奴が医者とはいえ、彼女が無事という保証はない。厄介なのはこれがただの誘拐とかではないということだ。俺か警察に連絡して身代金でも要求してくれる方がまだマシだった。これもまた警察の関与しにくい案件だ。捜索願を出して警察に捜してもらうという形だけの手続きをして、あとは自分で何とかしなければならない。夫である俺が捜し出す。
「あの医者は経歴もまとも過ぎて逆に怪しいんだ」
サムが言った。イギリス人のあいつとイギリスに来たばかりのあいつのどこに接点があるというのだろう。最初に腕の治療をしたときに惚れたのか?それだけでここまでのことをするのか?そう考えた時、自分もそうだったことに気づいた。
「ははは」
思わず笑うとサムが軽蔑するような目で俺を見た。
「あの医者と俺は同じかもな」
そうなると彼女が生きていると確信出来てほっとした。
「お前は自制心がある優秀な警官だから、わからんだろうな」
少しひっかかるのは、奴があの病院に勤務することになった初日に二人は出会っているということだった。彼女自身が認識していないのだったらそこは気にするほどでもないのだが。
「そういえば、彼女に頼まれていたことがあった」
サムが調べたのは、奴の髪の毛と目の色だった。金髪に見える髪は本当は黒髪。目の色は同僚に言わせればブルーっぽく見えるらしいが、カラーコンタクトをつけている可能性も捨てきれない。となると白人ではない?彼女はやつのことを日本人だと思っているのだろうか。そうなら面識があるということか。しかし奴の経歴は正真正銘のイギリス人。偽装なのだろうか。そんなことが可能ならどれだけ抜け漏れがあるのだろう。
もしかしたらすでに日本行きの飛行機に乗っているかもしれない。いや、あんな怪我をしていたら目立つに決まっている。意識の無い人間を乗せることは難しいはずだ。たとえ医者だろうと。それに自力で歩けたとしても彼女は抵抗するはずだ。抵抗する?彼女は日本に帰りたがっていた。まさか全部織り込み済みの行動なのだろうか。二人は仲間だとしたら。
「俺はどうしたらいいんだ」
「とにかく、一応これは事件性があるものとして捜索はするよ」
サムはそう言って仕事に戻っていった。家に戻るべきか決めかねていると新郎の父親が何か言いたげに近寄ってきた。
「奥さんにパンを届けたいから明日行ってもいいかね」
このオヤジは何も知らないらしい。返答に困っていると今度はおかしなことを言い出した。
「彼女は超能力でも持ってるのかね」
「は」
パン屋のオヤジは公園で彼女が刺された現場にいたわけだが、彼女は買うつもりのないパンを買って、金だけ払ってパンは受け取らずにまっすぐ刺されにいったように見えたらしい。襲われるのがわかっていたかのようだった。後ろから襲われたのなら背中を刺されそうなものだが、まるで見えていたかのようによけて腕をかすめた。ように見えた。足蹴りしたときも相手の動きが完全に止まっていた。ように見えた。
まあ確かに、うちの気性の荒い犬どもをいとも簡単に手なずけたことも不思議ではあったが。そういうミステリアスなところも惚れた理由にはなるだろう。要はこのオヤジも彼女には好意的というわけだ。ヘタレの信者以外のたいていの人間には好かれるだろうよ。そう考えるとますます彼女の無事が想像できた。俺はいったん帰ることにした。
またあの夢だ。
ビルの屋上で尊が燃えているであろう建物を見ていた。誰かが裏切った?何をしにあそこへ行ったんだろう。そして何故私だけが離れたビルの屋上に来たのか。私もあそこへ行くはずだったのに。彼がここにいるように指示した。彼は私の上司であり仲間だ。恋人でもある。あの仕事は何故かケイが引き受けてきた。ケイ?彼はどこにいるんだろう。一緒にいるのだろうか。尊が一人で行くなんてありえない。一人が盗む間にもう一人が守るのがこの仕事のやり方だ。盗む?犯罪の片棒を担いでいた?悪いことをしている認識はなかったはずだ。悪人からデータを盗んで依頼者に渡すのが仕事だ。訴えられることはまずない。誰かが私たちを始末しようとした?確か相手も死んだはずだ。何かが爆発してそこにいた人間は跡形もなく消えた。ケイが生きているとしたら。まさかケイが。そう思ってケイと過ごした部屋から逃げてきた。一緒にいたら殺してしまうかもしれない。なんで私じゃなく尊を殺したんだろう。いや私を殺すつもりだったが誤算だった?
「なんで」
また声にだして目が覚めた。目の前にケイがいる。まだ夢の中なのか。頭がぼんやりする。
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