小説0
投稿日: 2025年7月13日
東京ビッグサイトに来てみたのはいいけど、今日がいわゆるあのビッグイベント開催の日だということを忘れていた。というか知らなかった。渡されたこのチケットがそれのだったとは。スタッフ用なのは理解していた。どこのイベントという記載がなく、全ての会場に関係者として入場できるチケット。そんなものがあるのか、何故ちゃんと調べもしないで引き受けたのだろう。会ったこともない人の依頼を引き受けるのは二回目だ。まだ目的さえ知らされてないのに。
そもそも、手ぶらで「行け」という依頼。私が無防備に何も考えていないわけではない。1回目は地方のわりと大きな夏祭りに「行け」と言われて参加した。そこにおそらくお忍びで現れた地元議員の写真を撮れという次の指示に従い、数枚分のデータを送信して報酬を得た。翌日、その議員と一緒にいた女との写真が週刊誌に載った。簡単な仕事だった。私が2回目の依頼を受けたのも、依頼人がまともそうな人間だと思ったからだった。私なら出版社に売りつけるよりも、本人に買い取らせた方が金になると考える。まあ、それは犯罪になるのだけれど。
今回も似たような案件なのだろうと安易に来てしまったが、会場に着くなり猛烈な後悔の念に駆られていた。まずい。こんなに人がいてこんなに天気も良いと何しに来たかわからなくなってしまう。コスプレしている人だらけで、きっと中はもっとすごいのだろう。まさかこの中から特定の人間を見つけろとでも言われるのだろうか。私は人がいないところ、ビルとビルの間のようなところに身を潜めていたが、指示はまだこない。今日は諦めて帰ろうか、渡されていたスルーパスのチケットでこのイベントの中へ入るべきなのか、悩んでいた。そう、今日はコミックマーケットの開催日だった。
「え?駐車場なの?まだ。場所わかんなくてさ。まいったな。」
というような英語が聞こえてきた。そして声の主はスマホをポケットにしまい頭を抱えながらキョロキョロしている。
今日は外国人もわんさかいるだろうが、ほとんどは慣れた感じで目的地へ向かう人の群れに己の身を紛れ込ませ流れにのっているように見えた。
私と同じように道を外れ、勝手がわかっていないと思われる男の子が一人で右往左往しているのに出くわしてしまった。仲間とはぐれたか。そんなことよりやっぱり今日は退散しよう。人間は嫌いだ。こんなにうようよいられると、ゴミか何かくらいに見ていないと一歩も進めない。
意を決して駅の方を見た瞬間、いつの間にか視界に入っていたその男の子と目が合ってしまった。
「あれ?」第一声はかろうじて発せずに済んだ。男の子、といったら怒られそうだが私は二十五だし、彼は二十歳くらいにしか見えなかったが、イギリスで活動している何かのグループの一人に似ていた。たしか彼は日本贔屓で日本語も流暢だ。何故に私が知っているかって、彼らが数年前からよく日本のメディアにも登場しているからだろう。しかし、ちょっとだけ知っている程度だ。グループ名も出てこないし、彼らの歌う曲もほとんど知らない。
「ジョシュア?」
思わず聞いてしまった。こんなところに有名人がいることがバレたら大変だ。言った後でもう一人の自分が口を塞いだ。それが独り言だと思わせるように、一瞬で視線をなかったものして彼の返事を待たずに離れようと一歩動いた。だが容赦なく彼が私を捕まえた。
「ね、ここに行きたいのだけど、わかる?」
私はつかまれた手をつかみ返して、無理やり隙間に戻った。
「なんでこんなところにいるの?お付きの人は?あ、マネージャーは?」
「大丈夫だいじょぶ。僕に気づいたの、あなただけ。」
にっこり笑って言われると何も言えなくなる。私は無意識のうちに自分のマフラーを取って彼の顔に巻きつけた。彼の顔に手が触れたとき、不思議な感じがした。けど気にしない。さらにリュックから紫外線除けのメガネを取り出しそれもつけた。オタクに扮していつものバッグではなく、大きめのリュックにいろいろ詰め込んできていて正解だった。真っ黒ではないが、一応、目は守られるはずだ。人懐っこい性格は人気の要因でもあるのだろうが、いきなり会った日本人に、マフラーとサングラスで顔を隠されても大人しくしている。本当に大丈夫なのだろうか。
「とりあえず、声とか出さないでくれる?」
コクコクうなずいた彼をつれて隙間から出た。よし、大丈夫だ。誰もこっちを見ない。まあみんなそれどころではないか。私たちは再び人の流れに紛れて会場の中に入っていった。
ビッグサイト自体には何度か来たことがあるので、彼の行きたい場所もすぐわかった。人ごみの一部となってそのブースを覗く。そこにあるモノにどれほどの価値があるのかは私には理解できないが、彼は嬉しそうに眺めていくつかを手に取った。そのアニメが好きなのね。ふーん。そういえばそんなキャラのタトゥー入れてたっけ。この子じゃなかったかな。彼の所属するグループをスマホで確認したかったが誰に画面を見られるかもしれない状況ではやめておいた方が良さそうだった。
「え?」
「え?」
売り子と彼の声を聞いて何事かと二人に近づいたが、どうやら気づかれたわけではなさそうだった。じゃあどうしたんだと彼の横へ割り込んでみると、ジョシュアは現金を持っていないらしいことが判明した。おいおい。こういうところは未だ現金商売ですよ。商売と言ったら語弊があるか。まあいいか。とりあえず私が立て替えて、他に行きたいところはないか確認した。少し考えたようだが、彼も予想外の人の多さに疲れたのか、「・・無い」と言うのでひとまず彼を駐車場に送ることにした。
歩きながら、一言二言、会話した。雑音ばかりのこの空間で、彼の声はひときわきれいに透き通っていた。
「これだけのために、わざわざここに来たの?」
「うーん。そうなんだよ。この後、リハーサルあるし。忙しいのです。」
ご多忙ですこと。だったら、あんなのどこにでも売っていると思うけどね。雰囲気を味わいたかったのならもう少し散策でもすれば良かったのかもしれないが、そこまでお節介するつもりはなかった。どんなタイミングで大騒ぎになるやもしれない。ひたすら駐車場まで歩くと、ジョシュアが大きなワンボックスカーを見つけた。彼も安堵したし、私も「ふぅ」とよくわからない緊張感から解き放されたように溜息をついた。
あれ、彼のグループメンバーって何人だっけ。記憶をたどりながら車に近づくと、そのうちの一人が後部の窓から顔を出した。
「ハ~イ」
どこかシャイな感じのする顔つきだ。誰だっけ。有名人って表の顔はともかく、裏は地味な感じがするのは何故だろう。歌ったり、しゃべったりしない分、ただの綺麗な人に戻っているのだろう。確かにそうでもしないと日々電池切れを起こしてしまいそうだ。少なくとも、今、私は彼らのフアンでも何でもない通りすがりの人くらいにしか思ってないという証明にもなる。にっこり笑顔を返し、「はっ」と自分の行動を恥じた。
運転席から日本での案内役みたいな日本人が慌てて降りてきた。
「どうも、すみません。」
「いえいえ」
私はここに長居はしませんよ、という体でジョシュアにも「じゃあね」と挨拶し、くるっと向きを変えてそのまま歩いた。こういうときは振り返ってはいけない。早くこの場を離れたい。急ぎ足で数メーター進んでもう少しでまた人ごみに合流できそうなところでジョシュアが追いついてきた。
「待って、あの」
「え?ああ、お金ならいいですよ別に・・」
「あの、そうじゃなくて、番号教えて、LINEとかでもいい」
「は?」
「あ、お礼したいから」
「いや、じゃあ今、お金返して」
「あ、うん。でも教えて。連絡先。」
「なんで」
「また会いたいから」
「え?」
キープインタッチですか。はあ。まあいいか。一応教えるだけ。私は心の中でつぶやいた。それに、さっさと一人になりたい気持ちの方が勝ったので、交換して立ち去った。しばらく彼の視線を背後に感じてはいたが、しばらくして消えた。駅に着いて初めて、「ああ」と立ち止まってビッグサイトを振り返って視界に入れた。結局お金も返してもらってないし、マフラーもメガネも忘れた。やれやれ。売れてるアーティストからしたらはした金とモノかもしれないけど、あのマフラーは気に入っていたのになあ。何をやっているのだ私は。本来の目的も結局何だったのか、それすらわからないまま、家路を急いだ。一人になりたい。
ピコン。駅に着くまでの間に早速ジョシュアからのメッセージが入っていたが、とりあえずそのままにした。
正直、彼に興味はあるけど食いつくような真似はしたくない。日本で遊ぶための女にもなりたくないし。なってもいいけど、私のメリットばかりで彼にとって何の意味があるのだろう。いや、私だって忙しいのだからお互い様だ。気安く遊んでいる暇などない。そう言い聞かせながらも、「ふふ。」と謎の笑みがこぼれそうになった。いけない。そんなことを考えていたら、あっという間に家に着いてしまった。指示もこなかったし、報酬、ないな。と次の仕事があるかどうか心配になってきた。
たいてい西洋人は結構老けて見えるはずなのに、調べたら彼の年齢は私と同じだった。メンバーの中でも一番年上で、それで一番子供っぽく見えた。そりゃ日本のアニメなんかが好きなんだから子供か。とジョシュアに返事をしたら「それは偏見だ」と返ってきた。私たちはあれから頻繁にやりとりするようになっていた。さすがに彼は日本語を書くことはできないから、そこは英語でやりとりした。
何故ジョシュアは私に連絡してくるのだろう。来日してはいろんな女性、お綺麗な日本人の女性に会ってきたろうに。出会いの瞬間が珍しかったから印象に残ってしまったのだったら、私のミスだ。でも私も彼と目が合った瞬間、何か感じたことは間違いない。触れた時もだ。彼もそうだったとしたらこれも運命なのだろうか。
結局、諦めの悪い外国人に負けてしまい、私は彼らの帰国前に一度会うことにした。もちろんデートなんかではない。他のメンバーも含めての食事会だ。まあそれでよい。私としてはマフラーを返してもらえればそれでいい。
指定されたレストランの個室に行くと、すでにメンバー全員がそろっていて、ビールを飲んでいるところだった。一緒に入店するわけにもいかないか。かといって先に始めているところが、忙しい有名人にはありがちなのだろうか。明日、帰国するだけだからと最後の晩餐らしい。そんな席に呼ばれてしまったわけか。私はこの状況に半信半疑のまま、個室にいる人間を観察した。
メンバーは四人だった。それも含めてこのグループのことはすでに調べて自分の脳内にインプットしていた。他の三人、というか四人全員、確か彼女がいるはずだ。そんなに日本人が珍しいのかしらと不思議な感覚のまま、やたら私について聞いてくるジョシュアに適当に返事しつつ、意外にもあっという間に二時間くらい経ってしまったようだった。
駐車場にいた日本人のマネージャーらしき人がそろそろホテルへ戻りましょう、と部屋に入ってきた時には、私もそうだが四人とも半分酔っぱらい状態だった。明日、イギリスに直行で帰るという。名残惜しさを出さないように「お元気で」と言い駅の方へ向かおうとしたのだが、ジョシュアがマフラーとかを返すのでホテルまで来てくれと私を離さない。もはやそんなものはどうでも良かったのだが、返してもらえるなら返してもらおうという気持ちと、なんとなく離れがたく思っていた私はついOKしてしまった。
もちろん離れがたいという気持ちが大きく占めていて、マフラーが欲しかったわけじゃない。彼もそうだろう。「え」本当に?なんで?疑念が大きくなりつつも一緒にホテルへ向かった。その時、他の三人はマネージャーと一緒にさっさと車で行ってしまっていて、私たちは近くだからと夜の街を二人きりで歩いていた。さすがに当人も自覚していたらしく、帽子を深くかぶってマスクまでしていたので、バレて大騒ぎになる心配もなかった。彼はいかにも「日本人の女性の扱い方」を誰かにレクチャーされてきたかのように、私にまったく触れることもせず、一定の距離を保ってゆっくり歩き、話しかけてきた。
当たり障りのない会話に、それすらに居心地の良さを感じつつもせっかちな私は、早く白黒させたい一心でやきもきしていた。
「やっと明日帰って大切な人に会えるね」
と聞いてみて後悔した。待ってましたとばかりに、彼は言葉を選んでいるのか、ごにょごにょと面白いことを言ってのけた。
「実は昨日、その彼女に別れを告げたんだ」
「は?なんで?」
急に彼の心臓の音が聴こえてきた気がした。
「僕、君のことが好きになっちゃったみたい」
「は?」
だから?今夜いわゆるワンナイトなんとかに付き合えとでもいうのだろうか。私は自分が相当にひねくれていることに気づいた。私は素直じゃないのだろうか。好きか嫌いかで聞かれたらそれは好きなんだろうけど、別れる必要ないよね。まったく、外国人というやつは。真面目なのかそうでないのかわからない。いや人種は関係ないのか。その人の問題だ。万人に好かれることが才能として備わっている人間の考えていることが嘘か真かまったくわからない。
普通の女性ならこれは嬉しいことなのだろう。だが残念ながら私は傷つくのが嫌いだ。そう、だから真剣交際なんてありえないのだ。そんなことどうでもいい話だ。酔っていたことを言い訳にすればいい。それに一度くらい外国人と付き合うのも良い経験かもしれない。私は彼のことが嫌いじゃないしむしろ好きだ。なんの問題もない。そんなことを瞬時に考えた私は普通にというか当然のようにふるまって、彼の部屋までついていった。
案の定、というか当然ながら彼はマフラーを返す気は無いらしく、自分の昨日の心の葛藤を私に打ち明けるのに必死だった。
「好きです。」というようなことを言ってきた。日本語で「好き」って。今まで生きてきて、こんなにストレートに言われたことはなかった。ある意味、ものすごい衝撃だった。
「あのさ、でも明日、帰国するんですよね?」
いきなり遠距離恋愛なんてあるんすか?自分でそんなことを言っておいて、我ながらいい人ぶろうとしている気がして腹が立ってきた。
彼の方も「良い人」を演じているとは思えないけど、なんとなく、今夜は何もする気がないようにみてとれた。急に彼にイライラしてきた。礼儀をわきまえているとでも言うつもりなのだろうか。この空気に耐えかねて、私は手を伸ばして彼の喉に触れた。
彼の喉が動く。
「調子悪いんじゃないの?喉。」
少しだけ念を込めて数秒の時を止めた。ジョシュアも驚いて私の目を一瞬みたが、すぐに天井に視線をそらした。
「あ、なんでわかった?」
言いかけて彼は自分の体温が少しずつ上がっていくのを感じたようだった。私は、どうやら彼は真面目なだけなのだと思った。ステージで大勢の前に立つのは平気だとしても、今はとても緊張しているのがわかった。触れるとその人のことがわかるような気がするのは私の特技でもある。私も程よいストレスを感じていると伝えたくなった。そのまま自分の手を彼の首の後ろまで持って行った。キスくらい誰とだってやるでしょう。でも私の悪意まで届きませんように。
最終的に、若干潔癖症ぎみの私は先にシャワーを浴びたいと言ってバスルームに入った。そしてジョシュアが出てくるまでには二人とも完全に酔いも冷めていたが、互いに相性を確かめあった。というべきなのかは謎だが、相手のことを良く知らない状態でセックスする人たちってどういう心境なんだろう。という疑問は少し解けた気がした。ただ好きという感情で動いているのか、単に性行為が好きなだけなのか。それだけが答えの選択肢じゃないという不思議。自分はそのどれでもないという感情だった。
彼が幸せそうで良かったと、寝顔を見ながら帰る支度をして、そっと部屋を出たのが終電の後だった。タクシーで家まで帰る途中、マフラーを返してもらうのを忘れたことに気づいた。どうでもいいと思っておきながら物欲はまだあるのだと吹き出しそうになった。
「まあいいか」
独り言をつぶやき、明日、彼が連絡してくるかどうか一人で賭けた。してこない方に一本。マフラーを買いに行こう。もし、何らかコンタクトしてきたらまだ奪還の可能性はある。なんてことを妄想しながら帰宅してまたシャワーを浴びて寝た。
目が覚めた時、すでに彼がホテルを出ているであろう時刻だったが、私は昨夜あの後からラインの着信がピコピコ鳴っていたのにも気づかずにいたらしい。既読にすべきか悩んだ。本当に私と付き合うつもりなのだろうか。まさか。喉の調子が良くなったことに気づいたのかもしれない。もし後者なら彼はやはり歌手なのだと思うことにする。それもありだ。すぐに返事を送った。どこかで、彼が本気ではないことを願っていたのかもしれない。
「ごめん、今日用事があったから帰ってきた。ディナーをありがとう。気をつけて帰ってね。」
通話はしてこなかった。おそらくもう出来ない状況なのだろう。空港ではたくさんの日本のフアンたちに見送られているはずだ。無事に帰国できることを願った。飛行機をイメージすると、何故かいつも墜落することを考えてしまう。乗り物恐怖症ではない。厳密には「高いところから落ちたい」という願望があるのだ。いつかスカイダイビングもしてみたいと思っていた頃もあった。それがいつの記憶かは忘れた。
それからも毎日のようにメッセージが届いたので、私も普通の友だちのようにやりとりを続けた。不思議とその会話の中にはあの日の夜のことは一切入っておらず、特に甘い言葉を交わすこともなかった。にもかかわらず、彼はタイミングをみてはイギリスに来ないかと聞いてきた。私も自分の仕事があるし、そこははっきりと断った。それでもとうとう我慢の限界がきたのだろうか、また喉の調子が良くないのに週末にはライブがあるという。だから治してほしいと切実に頼んできた。
「いつも調子悪そうだけどちゃんと歌えてるじゃない?」
とはぐらかしてみたが、どうしても君が必要だと言われてしまっては、なんだか可哀想になってきた。ステージで水ばかり飲んでいる彼をみるのもそれなりに辛いものがある。
そうこうしている間に、飛行機のチケットを手配したからと連絡が来た。その週末ライブとやらの前日に着陸する便だった。覚悟を決めた私は、パスポートの期限が切れていないことを確かめ、イギリスに行くことにした。ついでに仕事も辞めた。一週間も休むくらいなら辞めてしまった方がいろいろと悩まなくてすむからだ。辞めると言っても私は一応フリーランスのようなものなので、契約している相手の人たちにその旨を伝えただけだ。正直、どこででも仕事はできたが、旅行にトラブルはつきものだ。すでに漠然とした不安が頭をよぎっていたが、まだ気にするほどではないと判断し、荷造りを続けた。
手配された飛行機は日本時間の午後遅い時間の出発だった。海外は学生時代に数回行ったきりで慣れていない。問い合わせたらファーストクラスのチケットだった。ビジネスでも乗りたくない。素直に受け入れたら後が大変だろう。借りを作るようで気が引けた。当日までどうすべきか考えていたが、やはり分不相応だからとカウンターでエコノミーに変更してもらった。本来ならキャンセル手数料まで取られそうだが、たまたまファーストクラス希望の客がいたため差額返金になった。融通が利く航空会社だ。その日は朝イチで家を出たので、予定の便よりも随分早い飛行機に乗ることができた。彼が返金されたことに気づけば到着時間もわかるだろうが、それも数日先になるだろうし、どうでもいいか、と彼には連絡しないで飛び立った。
ビッグサイトでの貸しとは比べ物にならない金額だが、彼が「こないだのお礼だ」と用意してくれたチケットでイギリスまで行けるなんて、ラッキーだ。「海老で鯛を釣る」どころではない。以前、プラスチックのおもちゃの指輪を酔っぱらった男に壊され、後日お詫びとしてプラチナの指輪をもらったことがあったが、その時は周りから「えびたいじゃん」といじられた。そんなつもりはないのに、そもそも男が勝手に壊したのだ。私の意図するところではない。それでプラチナというのは、多少は私に気があったのかもしれないが、告白されるわけでもなかった。世の中にはどうにもはっきりしない人が多すぎる。私はなんなら秒で白黒はっきりさせるのが大好きだ。あの時は、私がその男に関心がなかっただけだ。となるとやはり私はジョシュアに興味があるとしか思えなくなる。
二度目のイギリスには昼過ぎに到着した。外に出てこの国での最初の深呼吸をすると、微妙に嫌な空気が入ってくるのを感じてしまった。誰かのタバコだろうか。気にしないように、気づかないふりをしつつ、歩いた。ファーストクラスなら結構遅い時間に着くからと迎えに来てくれる予定だったが、おそらく今は前日のリハーサルで会場入りしているはずだ。私はそのまま会場までタクシーで向かった。
驚くだろうか。というより、予定外に登場するとろくなことがないのがお約束じゃないか。もしかしたらあの彼女とよろしくやっているかもしれない。そこへ私が顔を出したら相当面白い展開になりそうだ。まるで浮気現場に突入するかのように興奮してきた。付き合ってもいないのに。
ガラガラとスーツケースをひいた怪しげな女は、当然だか中に入れてもらえない。仕方が無いので「ジョシュアに私が来たと伝えてくれ」と警備員にお願いした。「私」が何者かも確認しないで警備員は中へ入ってしまった。中からスタッフと思われる数人がこちらをみている。不審者扱いされるだろうか。やたらドキドキしてきた。これが再会を期待する緊張なのか、再開できずに終わる緊張なのか、自分ではわからなかった。
「ファーストクラスなんて乗れるわけないでしょ」
「だからって変更する?」
私に恩を着せられなかったことがくやしいのか、少々喧嘩をしているみたいになってしまった。久しぶりに会ったのに、一週間ももつかな。
変なことを考えながら控室までついていった。他の三人も飛びついてきてくれた。さすが。こんなに歓迎されると嬉しいのを通り越して怖くなってくる。ジョシュアが不満そうに私を彼らから引きはがした。これから通しでリハーサルをするからみてくれと言われたが、疲れているからと断った。
「じゃあなんで来たんだ」
とぼそっと言われて、思わず、
「は?あなた喉の調子が悪いのでは?」
と言い返したら、思い出したかのように手を打ち、
「お願いします」と言ってきた。
喉、関係なかったか。私はやっぱり騙されていたのだと気づいた。まあ、もう来てしまったのだからどうでもいい。あとはこの国を楽しもう。
とりあえずホテルの場所を聞いて、先に部屋で休んでいることにした。
「部屋は変更しないでね」
と釘をさされ、どんなスーパーな部屋なのかわくわくしたが、中を見た途端血の気が引いた。洒落にならないくらいの部屋だった。
というオチだ。でも一週間過ごすには快適そうだ。
日本の分譲マンションの玄関よりも広いスペースがあり、そこを抜けるとやっと部屋というかリビングみたいなところに入れる。広いリビングの脇には大きなキッチンがあり、冷蔵庫やレンジ、いわゆる普通の家のキッチンがあった。その横にバスルームがあり、寝室がいくつあるかは数えなかった。
私は部屋の片隅に荷物を置いて、中身を出した。1週間過ごすわけだからいちいちケースに戻す必要もない。よく洗面台やクローゼット、寝具の横などに自分の荷物を全部配置する人がいるが、私は常に出ていけるようにしたいので、今までそういうことはやったことがなかった。常にカバンの中に自分のものが納まっていた。
昼寝するまえにさっぱりしようとシャワーを浴びたら案の定、眠気もなくなってしまった。私は、彼がホテルに来るまでぶらぶら外を歩こうと、ラフな格好に着替えてホテルのロビーへ向かった。まさかこんな高級ホテルに泊まらせてもらえるとは思っていなかったので、フォーマルな服をもってこなかった。というか、そもそもちゃんとした服なんて持って無いのだから仕方がない。必要なら現地調達するしかなかった。白系のワンピースに着替えてはいたが、1000円もしないくらいの安物で、到底このホテルには不釣り合いだった。
エレベーターを降りて人ごみに紛れた瞬間、嫌な予感がした。なんだろう、この感覚。ものすごい殺気が私に向かってきている。これは、まずいかもしれない。空港では無視した違和感が、ここにきてかなり大きくなっている。誰かが私を狙っている?確かめなければ。「ああ」面倒くさいことにならなければいいけど。立ち止まっていた私は、覚悟を決めてホテルから出た。しばらく歩いたところに商店街っぽいところがある。そこでウィンドゥショッピングでもするつもりだったが、もう少し広いところに行くことにした。
すぐに公園みたいな広場を見つけ入ったが、そこもまた出店もあって人でにぎわっていた。私は適当においしそうなパンを見つけ、ショーケースを眺めた。正確にはショーケースに移る背後を確認したかったのだが、人が多くて認識しづらい。それでも確実に見えたのは一人の女だった。
「なるほどね」
私がつぶやくと、店のおじさんが話しかけてきたので、しかたなくいくつかのパンを注文した。お金を置いて、彼がパンを包むのを待つ間に、さりげなく後ろをキョロキョロする感じにふり返った。こっちを見ていた女が人ごみにさっと隠れた。同時に、少し離れたところに警官らしき人が立っているのを確認した。
さて、どうしようか。できれば警官に助けてもらいたい。だがこの状況だ。どう考えても怪しいのはここでは外国人となる私だ。下手に騒いだらきっと撃たれて死ぬのは私の方だろう。それを避けるために多少のリスクを負うのは必須だった。
女が近づいてくる気配を存分に感じたので、私はパンを放棄してその場を離れた。できるだけ警官の近くに向かう。でも近すぎてもダメだ。私が一撃を食らってからでないと助けようとはしてくれない。そう思った瞬間、背後からナイフが私の腕をかすめた。あまり軽傷だと誰にも気づかれないので、完全によけることをしなかった。おかげでその一撃は結構な感じでヒットし、私の腕をえぐった。
「きゃー!」
誰かが叫んだ。そりゃ腕から血が噴き出した私と、ナイフをもった女が対峙しているのだ。そのくらい驚いてくれないとあの警官に気づいてもらえない。
でも思ったより深くいっちゃったかもしれない。後悔しつつも、女の次の攻撃を足でかわした。女が数メートル下がってこっちをにらみつける。ナイフを落として今度はポケットから銃が出てきた。
うそでしょ。さすがにこれは避けないと。だが避けられるわけない。幸い銃の扱いに慣れていないのか、一発目は私の頬をかすめただけで済んだ。
「まだ?」
そして二発目、やっとこっちに到達した警官が迷わずイギリス人であろうその女を撃った。外国って恐ろしい。威嚇もしなければいきなりパンパンって何発も撃って良いものなの?
ワンピースが自分の血で染まっているのを見て恥ずかしくなった。
私はその場に倒れこんだが、パン屋のおじさんが「大丈夫か?」と私を起こしてくれた。
「あ、パン食べ損ねちゃうね」
ふふっと笑う私を心配そうに支えておじさんは「パンは届けてあげるよ」と言ってくれた。まあ、どうでもいいけどね。食欲ないし。女がどうなったか確認できない状況で、撃った警官が私のところへ来た。
「大丈夫?君は誰?」
私が何と答えようか悩んでいると、周りにいた人々が口々に「これはキャサリンじゃないか?」と倒れている女について言った。自分や家族と無関係、テロとかではない事件。だからそんなに冷静に口を挟めるのか。どこにでも野次馬はいるものだと感心しながら、チラッと視線を向けた先には倒れた女がピクリとも動かない。
ああ。思い出した。キャサリンね。ジョシュアの彼女だ。いや、元カノ?ふっと、全てに納得して同時に意識が遠のいた。
次の瞬間、まだ私は救急車に乗せられるところだった。この警官はもうすべて把握したのだろうか。
そりゃ、彼氏が日本にいる短い間に好きな人が出来たからと電話で振られたのだ。しかも相手の女は日本人。殺したくもなるはずだ。一体、どういう別れ方をしたのやら。あとで確認すべきか、知らんふりすべきか。いや、そんなことくらいでこれ?わからない。
「大丈夫?」
目を開けた私に気づいて、また警官が聞いてきた。
「あの、彼にはまだ伝えないでください。仕事中なので。終わってから」
と言いかけて、また意識が遠のいた。予想外に出血したかも。警官のところに仲間の警官がきて耳打ちしていた。
「ジョシュアの恋人みたい」
「え、ジョシュアって?あの?」
二人が私をみたが、私はもう返事をする気にもならなかった。救急車の扉がしまって動き出した。
旅行中に病院なんかにかかったら大変だ。まして入院なんて絶対にしない。強い意志で、出来る限り「私は大丈夫」と言い聞かせ、治療が終わった後には早々にホテルへ戻ろうとした。
私を診てくれた医者が、今日は病院にいてくれないかと懇願に近い言葉をかけてきたが、どうしてもここを出たいと訴えた。なんで来て早々、病院で一夜を過ごさなければならないのやら。あの豪華ホテルでゆっくりしたい。看護師に「何か羽織るものを借りたい」などと言っているときに、ジョシュアが飛び込んできた。
血まみれの服を着た私をみると、泣きそうになってすり寄ってきた。
「ごめん」
「僕が悪い」
そう言って私の頬を触った。すかさず先生が「触らないで」と言い放ち、私の頬に絆創膏のようなモノを貼り付けた。弾がかすめた傷が隠れた。
結局、彼の上着を借りてホテルの部屋に戻ってきた。腕の傷はわりと深いので明日の朝、様子をみに伺います。と先生に言われ、自分でやるとも言えずに私はうなずいた。
医者が「では明日」と言って帰っていくのを見送ると、疲れが一気に出てソファに倒れこんでしまった。ジョシュアが本当にごめんと言ってキッチンから水を持ってきてくれたので一気飲みして溜息をついた。一時間でいいから、一人でボケっとしたいな。と思っていたら良いタイミングで警察がきて、ジョシュアが対応するために部屋を出て行ってくれた。
「はあ。」今日何度目の溜息だろう。とにかく疲れた。考えるのは明日にしよう。そう決めて私は部屋着に着替えてソファに横になると、すぐに寝落ちしてしまった。
この事件は、ジョシュアにいきなり別れを切り出された、しかも電話で、キャサリンが納得できずにいるところに、自分の彼氏を奪った私が彼に会いにイギリス入りすると知って待ち構えていたということで落ち着いた。しかし、警察は日本人を良く思っていない第二のキャサリンが出てくる可能性が高いとみていて、しばらくはホテルにこもっていた方が良いという結論に達したようだった。
こうなっては、もはや私が彼を奪ったことが事実として定着したようなものだ。なんか心外だ。
それに、第二のキャサリンではない。それは私だけが知っている事実なのだろうか。キャサリンを操っているやつがもう一人いた。あの公園に。
翌朝、目覚めるとちゃんとベッドに寝ていた。ジョシュアが運んでくれたらしい。寝室はいくつかあるのに、なぜか隣で寝ている彼をみて恨むに恨めない。「まあいいか」とつぶやきシャワーを浴びに部屋を出た。腕にビニールをぐるぐる巻いて一応濡れないようにして、手短に済ませた。出てくる頃には結局、包帯が濡れていたので全部取ったら痛々しい傷が見えた。はあ。
そのままバスローブを羽織って、リビングに戻るといつの間にか起きていたジョシュアが心配そうに支えに来てくれた。ソファに座ると、待っていたかのように、いやもしかして一晩中このホテルにいたのだろうか? そのへんはわからないが、昨日の先生が入ってきた。
「大丈夫です」
傷も治りかけている。もともと血小板が多いのかなんなのか、怪我をしてもわりと治りは早い方だった。しっかり包帯を巻きなおし、「ではまた」と言って帰っていった。入れ違いに私を助けてくれた警官が入ってきた。私がバスローブ姿なのを見て、
「すまない」と言って出て行こうとしたが、私が引き留めた。別にどうでもいい。そんな魅力的な体つきでもないし。ジョシュアが何か言おうとしたが思いとどまったようだ。
共犯者の件を一応話そうか迷った。面倒くさいことになるのは嫌だった。
「昨日はありがとうございました。おかげで殺されずにすみました」
お礼を言うと、その警官は「いや」と言って何か聞きたそうだったがためらっていた。
たぶん、「その華奢な体で、どうやって二回目のナイフをかわしたのか?」そんなところだろう。
確かに二回目は絶対にまともには受けられないと、思わず回し蹴りでナイフを落としたのは私だ。周りにいる人に刺さらないように、上から真下に落とした。自分で言うのもなんだが、そうそうできる技ではない。怪しまれても仕方がない。
「日本人はみんな空手のたしなみがあるんですよ」
私が笑いながら言うと、真に受けた警官は安堵したかのように「ああ、そうなんですね」と相槌を打った。そんなわけないだろ?というような顔をしたジョシュアが、もう一人女性の警官が入ってくるのをみてバスルームへ消えていった。
手短に済ませたかったので私の方から質問した。
「キャサリンは一人で犯行に及んだのですか?本当に彼を取られた恨みから私を襲っただけ?彼女はもともと銃を持っていたの?普段から?」
警官はサムといったが、女性警官の方は名乗らないのでわからなかった。サムがしばらく黙っているので、英語が通じていないのかと思ってまた私が言った。
「キャサリンは双子?」
二人の警官が驚いた顔をした。
「なぜそれを?」
キャサリンの他にもう一人、私を見ていた女がいた。よくよく考えると同じ人物のようにも見えたが、あの現場に二人いたのだ。サムによって射殺された時にはもう一人は消えていた。おそらく本当に私を恨んでいたのはそっちではないか。だから犯人が死んで事件解決、とならず、こうやって夜通し警官が部屋の前にいたのだろう。
ジョシュアは知っていたのだろうか。交際相手が双子ということはともかく、実際自分が付き合っていたのがどちらなのか、ということを。
サムは状況を確認すると、「ではまた」と言って出て行った。女性の方が残っているのは何故だろう。じっと彼女を見つめると、やっと「私はアリスです。あなたの心の・・」と言いかけたが、そこでジョシュアが戻ってきた。
「私、別にショックを受けているつもりもないし、もう大丈夫だからこの人にも帰ってもらうように言ってくれない?」と日本語で彼に言った。
彼がそれを彼女に伝えると、アリスも出て行ってくれた。ふう。
昨夜はバタバタしてろくに話していなかった。やっと二人きりになった気がした。
「本当にすまない。こんなことになるとは思わなかったんだ」
「どんな別れ方をしたのか知らないけど、あなたが悪いわけじゃないから気にしないで」
「一生、償う覚悟だよ」
「え?プロポーズでもしたつもり?」
ふふっと笑うと、彼も笑ってくれた。そう、この顔。顔でしょ。
「いや、笑い事ではなくて、本当に、その、君を守りたいんだ」
「今日のコンサートは予定通りだよね?リハーサルは午後から?」
「え、そうだけど、君はここから出ない方がいいから」
「わかってる。今日はね」
そう言って水を取りにキッチンへ行った。ジョシュアもついてきた。
「お腹すかない?なんか食べようよ」
私が冷蔵庫を開いて中身をみていると、
「もちろん。でも今はルームサービスにしよう」
彼はそういってホテルに頼んでくれた。
久しぶりに食事をした。期待はしていなかったが普通に美味しい。
パンを食べながら本題に入った。
「私、明日帰るわ。日本に。ここにいるといろんな人が絡んできて迷惑かけることになりそうだし」
コーヒーを吹くのをかろうじてこらえたジョシュアがびっくりした顔で言った。
「ダメダメ。今は離れたくないよ。だめだよ」
結局、今夜のコンサートに支障がでないように、とりあえず私が折れた。彼の喉にそっと触れてうまくいきますようにと祈った。歌い手という肩書をどけたら、何が残るんだろう?そんなことはあってはいけないと思ったし、私はそこまで彼に執着するつもりはない。傷つくのが怖いから。体は傷ついたけど。それはたいしたことではない。でも本当にただの恋愛感情のもつれだったのだろうか。正直な話、こんな人とまともに恋愛できると思って付き合う女なんているとは思えなかった。
午後は一人でホテルの部屋で過ごしたが、こっちに来てからゆっくり一人になったのは初めてだ。久しぶりに誰にも見られていないという感覚が少しだけストレスを追いやってくれた。一週間の予定でまさかずっとこの部屋で過ごすのか。一度くらい彼が歌うのを生で聴いておきたかった。いくら知らないとはいえ、代表曲くらいは聴いておこうとCDも買ったのに。まあ持ってくることはしなかったが、彼らが有名なグループだということは理解したつもりだ。何故、私だったのだろう。考え出すときりがないので、思考する内容を変える。
さすがにナイフは回避できても銃の弾はよけられない。たまたまキャサリンが下手くそだったから良かったものの、そもそも何故最初から銃でなかったのか、殺すつもりはなかったのかもしれない。そうなると結果殺されたキャサリンの双子の片割れの怒りはどこに向くのか。私かサムか。ジョシュアか。
私は、持ってきたパソコンを開いた。ホテルのネットワークを拝借して昨日の公園にある監視カメラの映像を探したが見つからなかった。誰かが撮影してどっかに投稿してないかも見たが、見当たらない。すべて故意に消されたように。となると映像はすぐにはみつからないだろう。代わりに犯人以上に、被害者の日本人への誹謗中傷は消されることなく残されていた。それはそれで面白い。昨日から私のスマホが無いのはそのせいかもしれない。私がパソコンを持ってきていることに誰も気づいていないけど。
「はあ」
私は大きくため息をついて、「よし」と気合を入れた。私の記憶力はまだ衰えていなかった。パン屋のおじさんの顔。キャサリン。ジュリ。ジュリは双子の片割れ。サム。ジュリは妹が撃たれたのを見て、後ずさりして消えていった。車に乗りこむ。運転手、誰。そこまではわからない。でもまだ共犯者がいる。警察はわかっているのだろうか。外国の警察がどこまで優秀なのかは知らない。私についても調べたろうけど、まず何も出ないと思う。私は普通の日本人だ。どこにでもいる。ジョシュアに好かれてホイホイこの国にやってきたおバカな日本人。
おそらく私以外の人が標的になることはなさそうだった。
警察が本気で私を守ってくれるとは思えないし、やっぱりジョシュアの負担になるのも気が引けた。明日、帰ろう。そう決めて、部屋のドアを開けるとサムがまだいた。
「私のスマホ、いい加減返してくれない?」
「君のはジョシュアが持ってるよ」
あ、そう。本当に純粋に私があれをみないように気を使ってくれているのか。
「飛行機のチケット、取りたいんだけど」
「え?」
「明日、日本に帰ります」
パソコンで取ればいいけど、持っていることはまだ内緒にしておきたい。
ホテルの中なら大丈夫だろうと、サムに付き添われてロビーまで行けた。こんなにすんなり部屋から出られたのが意外だったが、理由がわかってげんなりした。こうなることを予想して、明日の飛行機は全て満席という事実が伝えられた。そんなわけあるか、この閑散期に。
予定通り、一週間は滞在するしかないのだろうか。微妙にこの状況に飽きてきた自分がいた。
いったい私は何をしにイギリスまできたのだろう。実は歓迎されてなかったのにこのままジョシュアと付き合うわけにもいかないし、観光もできない。唯一、味方に思えたサムにこの状況から抜けたいと頼んでみた。それと、行方がわかっていない共犯者と思われるジュリについては私が出ていかないと捕まえられないのではないかと提案した。昨日は「わざと」やられたわけで、本来はそう簡単には殺されない女なのだと言いたかったが、やめておいた。もちろんサムは首を横に振ったが、ちょっとくらいは同情してくれたかもしれない。今日のところはおとなしくしていてくれと言われ素直に部屋に戻った。
本番前のジョシュアが電話してきた。彼は何か会話する度に「すまない」を言うようになってしまった。もはや罪悪感でしか私と関われないのかもしれない。私がもっと感情的に怒ればよいのだろうか。きっと心を開かない私に疲れてくるだろう。どうすべきか彼はわかっていない。でも私は彼には歌っていてほしい。だから明るい声で「ちゃんと仕事するように」とステージへ送り出した。彼らの歌声を生で聴く日がくるかは謎だが、なくても致し方ない。
シャワーを浴びて、冷蔵庫にあるもので何か作ろうとキッチンへ立った。一週間分の食材と思われるものがたくさん入っていた。無性に餃子が食べたくなった。無理だとわかっていてまた部屋のドアを開けると、サムがいた。
「いったいいつ休むの?」
「当分は徹夜かな」
うそでしょ。そこまで責任感ある警官って外国にもいるのね。サムのスマホを借りて、餃子の皮をみせた。
「買ってきて」
「何これ」
「日系かアジア系のスーパーにあるから」
そういってドアを閉めた。
万が一、彼が買い物に行って、廊下に誰もいなくなったらどうしようか、少しワクワクして覗くと、知らない警官が立っていた。残念。何故こんなに強力なガードなのだろう。キッチンに戻って肉の塊を取り出し、包丁でミンチにした。結構な量をつぶして腕が疲れてしまった。普通なら逆の手でもやるのだけど、今回は傷が痛くてできない。知らない警官にやってもらおうか悩みつつも無事にミンチにした。我ながら自分がサイコパスになった感じがした。そうでなければこんな大量の肉をミンチに出来まい。
適当に野菜も刻んでまぜ、味付けもした。あとは皮を待つ。
タネが残りそうだったが、サムがどれだけの皮を買ってくるかによる。しかし数時間立つのに彼はまだ帰ってこない。探してくれているのだろうか。待ちくたびれて今日はハンバーグにでもするかと思っていたら、帰ってきた。
「うわ。ありがとう」
「結構いろいろ売ってるんだね」
初めて入った店で物色していたら時間が経ってしまったらしい。彼は料理好きなのだろうか。
ついでに手伝ってもらおうと、餃子の作り方をレクチャーした。二人で黙々と作業する。
なかなか器用なサムだ。聞いたらやはり料理は家でもやっているらしい。一人暮らしなのに偉いね。私一人分のはずなのに、どういうわけか百枚買ってきたので、タネを全部使うことになった。私が60個、彼が40個、なかなかやるじゃないかと感心しつつ、ホットプレートに半分並べて加熱の準備をした。熱々が美味しいので、焼く前に醬油やお酢を用意し、サラダも用意しようか迷ったが餃子だけで充分だと思ってやめた。
相当な時間が経っていたらしく、ジョシュアが「もう着くけど何かいる?」と連絡してきた。ホテルに電話するのも面倒だろうから、スマホは返してね、と念押しして、餃子を百個焼くことを伝えた。
「餃子」を知っているらしく、百個も誰が食べるのだという話になって、結局メンバー三人もホテルへやってきた。予期せず、廊下の知らない警官も含めての七人で餃子パーティとなった。
こういうのは嫌いじゃない。やっぱり他にも何か作っとけば良かったかな。
私自身、餃子は食べても十個が限界だが男の人には十数個じゃ少ないかもしれない。あっという間に全部食べてしまった。後半の五十個は知らない警官が「やってみたい」といって焼いてくれた。焼くだけなので上手いも下手もないが、どちらも美味しかったと全員が満足したのをみて、私はイギリスに来た甲斐があったと初めて思った。
私と警官以外の人がアルコールを接種したせいもあり、思わぬところで私は生歌を聴くことができた。結果的に二日目としてはなかなか充実した一日となった。
翌朝も先生がやってきて傷を診てくれたが、あとはもう自分で手当しても良いと言われたので、飛行機に乗るのも大丈夫、ということになった。ジョシュアもホッとしたような顔をしていたが、私が荷造りを始めたのをみて、あわててサムを呼びに行った。警察によると、事件はまだ解決していないとのことで、日本に帰ったら警護ができなくなるので少なくともジュリがみつかるまでは留まって欲しいということだった。
「でも予定より長くは居られないよね」
「そこは特別に考えているから大丈夫」
どうやら、というかやはり違う意味でも目をつけられてしまったのかもしれない。そこは知らんふりで通そう。余計なことは言わない、関わらないのが一番だ。そもそもこの国と私は何の関係もないのだから。
しかし解決するまでずっとホテルの部屋にこもって何をすればいいのやら。ジョシュアが異常に心配しすぎているだけでは、とも言ってみたが、受け入れられなかった。どれだけの女性に恨まれているのやら。別にパソコンがあれば何日でも籠っていられるが、それは一人でなら、という条件付きだ。パソコンを持っていることもそのうち知られてしまう。今日は彼もお休みらしいから一日中、ここで二人で何をすればいいのやら。甘い時間を過ごすのもありなのだろうが、そんな気分にはなれない。とにかく外に出たい。もやもやしていると、ジョシュアが提案した。
「僕のうちにくる?」
その方がここよりかはチャンスがあるかもしれない。私は喜んでその話に乗った。冷蔵庫の中身を使い切ることなくホテルを出るのはもったいなかったが、ジョシュアの家とやらが豪邸なのは想像できた。彼はいわゆるセレブなのだ。
私が住めるように支度をするとかで、結局移動するのは明日以降になってしまった。今日もここで過ごすことにはなったが、一人きりなのでそこは妥協した。
「さて」
今日は三日目。四日後には帰国するという未来が想像できなくて憂鬱になってきた。帰りのチケットはそもそも最初からもらってないのだ。ジョシュアにとっても、私との関係性を確かめる期間のはずだった。どうなることやら。
パソコンを開いてスマホも繋げた。スマホは二重にロックをかけておいたが、思った通り何度か解除が試みられていた。逆に怪しまれたかもしれない。双子の片割れが未だにつかまらないのには理由があるのだろうか。もう一度、監視カメラの映像をチェックしようと思ったがその前にメール着信に気づいた。以前、ホームページを作ってあげた会社からリニューアルしてほしいという依頼だった。暇だから受けることにした。
完全にお任せしますという案件なので、楽な仕事だ。その会社のことを知り尽くす必要はあるが、その工程が私の特技となる。知ってしまえばあとは自分の好きなように素材もそろえて作り変えるだけだ。万が一、気に入られなくても報酬がもらえないだけで自分の勉強にはなる。昼は適当にサンドイッチを作って食べ、余計なことを考えずに黙々とパソコンに向かっていたら、背後に人が立っていることにも気づかなかった。
「わ」
しまった。ここで慌てたら怪しすぎるので平然と作業を続けた。
「何してるの」
「え、一応仕事」
「へぇ。仕事してたんだ」
「そりゃ働かないと生きていけないからね」
時間を確認するともう夕方だった。ホテルでルームサービスを頼んでくれた。
「よくよく考えたら、何もあなたまでホテルに泊まる必要ないよね」
「なんでそんなこと言うの。いつも一緒にいたい」
僕が守らないと。と言わんばかりだ。守りたいと思うなら日本へ帰してくれ。そう思いつつも、こんな人に好かれている自分もまんざらではない。今は今で幸せなのかもしれない。楽しまないと。明日死ぬかもしれないのだし。死の気配で空港に降り立った時の違和感がまた襲ってきた。どうなったら腑に落ちるのだろうか。またここに居る意味が見出せない状態に陥るのか。
シャワーを浴びて、明日移動するための準備、荷造りをして寝室に入った。なんだかんだ体は動かしていなくても疲れた日だったが、ジョシュアが来たので思わず彼に触れてしまった。こんなキレイな人を独り占めしていたら、殺されてもしょうがないかも。と思いながらやっぱりこの人が好きだと思った自分を認めた。幸せなはずの夜だったが、夢は最悪だった。
夜中に目が覚めてからずっと双子について考えていた。キャサリンとジュリでは陽と陰なのだろうか。陽を失ったジュリはもしかしたらもうこの世にいないかもしれない。私のせい。
結局あまり眠れないまま朝を迎えた。人気のないうちに出発しようと朝食も食べずにロビーへ向かった。エレベーターのドアが開くと、あの嫌な殺意がまた襲ってきた。
「噓でしょ」
私は誰にも聞かれないようにつぶやき、スタッフと話しているジョシュアから少し離れた。早朝とはいえそれなりに人はたくさんいた。朝から観光に出かける人もいるのだろう。ジュリの姿を探したが、いるわけがない。いたらとっくに警察が確保してくれているはずだ。サムは入口付近で車を待っている。他にも数人警官がいたが、何も起こるわけがないという感じでこちらを見てもいない。いや、一人だけ見ていた。殺気のせいで誰をみているのかわからない。自分ではないことは確かだった。瞬間的に私はその人の前に走った。私を視界に入れたその人が銃を向けたが同時に私の手が彼の顎を下からパンチした。
ほとんどの人はガラスの割れる音が鳴り響いてから、何か起きたことに気づいた。ジョシュアより先にサムが私のところへきたのがわかった。
デリンジャーか何か、撃たれた感覚はなかったが、こともあろうにこの間ナイフで切られたところをかすめた様だった。はあ。かすめた弾がロビーのガラスに直撃し周りにあったものが全部割れて散乱していた。どさくさに紛れて私たちは車に乗り、逃げるようにホテルを去った。
ジョシュアの家に着くころには腕の出血もなく、むしろ何事もなかったかのようにふるまう私を半泣きで抱える彼の方が気の毒なくらいだった。みんな勘違いしているようだった。今回、狙われたのは私ではない。確信はできないが、顎を砕かれて白目をむいた男が最後までみていたのはサムだったと思う。
その男の不可解なところは、サム自身ではなく、ガラスに映ったサムを見ていたことだ。そして何故かそのガラスのサムを狙った。私の思い違いだろうか、だとすると結局私を見ていたのだろうか。視点が定まらないようにみえる人がいないとも限らない。
ジョシュアの豪邸は、なだらかな坂道を上ったところにあった。いつからあったのか、門の脇に警備員用の小さな小屋みたいなのがある。そこにはすでに警官がいた。あとからとってつけたような警備員室に、昨日はこういうことをしていたのかと妙に納得した。中へ入るとこじんまりした庭が広がり、奥に建物があった。三階建てだろうか。中は生活感がなくきれいだった。一階、というか半地下のようなフロアが下にあり、そこはどうやら洗濯機とかの物置らしい。三段くらいの階段を上がると玄関があり、キッチンやリビングがあった。すごくきれいで新築みたいだった。まさか新築?
「これ、いつ買ったの」
「え、昨日」
金持ちのすることはわからない。昨日一日でこれだけの用意ができるなんて。
二階は寝室やらバスルームやらがあり、一階もそうだがすべてが庭に面して大きな窓がある。なんて開放的な部屋だろう。これなら一日中いても問題なさそうだ。
あとは屋根裏部屋のような部屋が上にあり、そこは防音室だった。ジョシュアの仕事部屋だろう。二階で荷物を整理していたら、先生が飛び込んできた。
「ハイ」
「腕、みせて」
そこで初めて自分でも傷をみた。包帯をかすめただけで特に問題なかった。二人とも扱いに慣れていない状態で銃を使ったのだろうか。やはり殺すつもりはないのか、そうだとしたらあの殺気はいったい何だったのだろう。先生が帰ったあと、やっと朝食にありつけた。といってもこの家の冷蔵庫は空だったのでホテルが持たせてくれたサンドイッチだが。イギリスで今のところ、自分が作った餃子が一番おいしかった。
ジョシュアは夕方まで仕事だというので、私はwebデザインの仕事に戻った。パソコンを置いた机に座ると庭が見えた。サムもいた。こちらから見えるということは当然、あちらからも丸見えというわけだ。どちらにしても彼はタフな人だ。いつ寝ているのだろう。警官ならいろんな人から恨まれることもあるだろうが、キャサリンを殺したことで余計な因縁が生まれていなければいいと思った。
ジョシュアは美人だが、サムは逞しい。仕事は楽しい。そういえばこの会社の顧客層は二,三十代の男女だったっけ。美形の男と、逞しい女でも貼りつけるか。完全に見る人が見たら二人だろうと思える男女のイラストをおまけに描いてみた。問題ない。どうせ日本人しか見ないだろうから。
とりあえず試作を送ってしまうと、まだ仕事をしているような姿勢のまま、凝りもせずホテルの監視カメラデータにアクセスを試みた。これでダメだったらいよいよロンドン警視庁かどっか、秘密警察だっけ、情報なんとかにお邪魔するしかない。血がたぎる、とまでは言わないが、久しぶりに昔の緊張感が湧いてきた。また一瞬でどこか高いところに立っている。
「おっと」
さすがに今朝の今では何も対処できていないのか、ロビーの映像が入ってきた。明らかに異変に気づいてからの私の行動が速すぎてスローでみないと男の表情がわかりにくい。警察もわかっただろうか。彼が私を全く見ていないことに。サムがここにいるということは、自分が標的だったことには気づいていないのだろうか。意識が戻って何を言ったか、後でサムに聞こう。これでこの事件も解決するはずだ。彼があの時のドライバーだったとしたらそれで充分つじつまもあうし、あとは双子との関係性がわかればお終わりだ。これで日本に帰ることができる。
絶対に履歴を残さないようにしてパソコンを閉じた。サムがこっちを見た。午後から暇だな。私は睡魔も襲ってこないのを元気だと勘違いした。
まだ食欲もないので軽く運動でもしてくるか。果たして自分に食欲というものが存在するのだろうか。お腹が空くという感覚はわかるが、生きるためだけに食事をしてきたような気もする。与えられたら食べる。そう考えると、何故、餃子なんか作ったのか。餃子が好きだった?わからない。
私はジャージに着替えて帽子とスマホを持って裏口に回った。裏口にも監視カメラがあった。はあ。面倒くさいな。
私は窓から地面に下りてカメラに映らないように軽くストレッチをした。よし。と裏の塀をひょいと飛び越えて道路に出ると、一気に坂を走り下りた。
まさか私がジョギングしているとは思わないサムが私をみて目を見開いた。しばらく立ち尽くしているようだったが、意を決したのか猛スピードで追いかけてきた。
「どこいくんだよ」
「あれ、付き合ってくれるの」
「危険だから止まってくれ」
「大丈夫、事件はもう解決したでしょ」
「なんでそれを」
「でもなんで見張られてるのかな」
「それは彼がボディーガードを雇うまで」
息が切れてきたらしい。ちょうどお目当ての公園へ着いた。
「きっつ」
「怪我してるんだから無茶しないでくれ」
「大丈夫」
あなたの方が無茶してない?と言いかけてやめた。何も持たずに追いかけてきたらしいので、私は飲み物を買いに行くから待っていてと言い残し、小さな売店へ水を買いに行った。サムから見える範囲だし、事件もやはり解決とみなされているのだろう。さすがについてこなかった。ベンチにへたり込んだ彼をみて、案外タフでもないのかな。と気の毒になった。
二本のボトルをもって店を出ると、ベンチに座ったはずのサムが消えていた。また嫌な感じだ。
これじゃどっちが守っているのやらだ。人気のない公園は休憩所やらベンチやら木々で入り組んでいて死角がわりと多い。深呼吸して息を止める。音を立てずに聞き耳をたてた。静まり返った中にかすかにうめき声がした。木の陰に複数の男に囲まれているサムをみつけた。
「ちょっと」
私が遠くから近寄っていくと、男たちがこっちを見た。サムが「逃げろ」と言ったにもかかわらず、私はサムと三人の男たちの間に入っていく。何がどうなったのか、ボーガンかなんかで撃たれたのかサムの片手が木の根元にピン止めされていた。他に怪我はしていなそうだったがさすがに身動きがとれなくなってしまったらしい。
「え、大丈夫」
私は男たちを無視して、サムの手首に手を当てた。その瞬間、ゴルフクラブが私の頭に命中した。普通こういうときは何か言ってから攻撃するものじゃないの?それって名乗ってから勝負する日本の武士だけ?不意打ちをくらって私はサムの足元に崩れた。
「なんだこの女は」
「まあいい、先にお前から殺してやる」
「やめろ」
そうそう、こういうやり取り。するでしょ。普通。自分の頭がおかしくなっているようだ。さすがにこれは殺しても正当防衛になるでしょ。ブツブツ日本語で言いながら私はフラフラと立ち上がると一瞬でゴルフクラブを手にして男の頭をかち割った。一発目の反動でそのままもう一人の頭を狙って振りぬいた。なんでよけないのだろう。バカなの。こいつら。
二人が動かなくなったのをみて三人目が走り出した。私はバトンを回すようにはずみをつけて思いっきり投げた。勢いに乗ったクラブの先端が振り返った男の側面に直撃して倒れたのを確認すると、私もサムの横に倒れこんだ。
ポケットからスマホを出して、
「何番?」とかろうじてサムに尋ねたが、そこで眠ってしまったようだ。
「一体、何が起きたんだ」
俺は空いている方の手で彼女のスマホを受け取り、救急車を呼んだ。目の前で起きたことが信じられなかった。自分は今度こそ連中に殺されると思ったのに、彼女が来て一瞬でこの状況だ。頭から血を流して倒れた彼女に声をかけるがまったく反応がない。どうなっているんだ。
「ちくしょう」
思わず叫んだ。すぐに助けは来たが、俺の状況は変わらない。
「こっちだ。早く来てくれ」
彼女が運ばれていったあと、別の救急隊が手に刺さった矢を抜く作業に入った。そのうち仲間がやってきて状況を聞いてきたが、彼女がやってくれなかったら自分が殺されていたと説明するので精一杯だった。彼女の無事を確認したい。一体、何者なのだ。ただの女ではないことはわかった。あんな、軽々と人を殺せる女なんて。しかもゴルフクラブで。彼女も実は警察かなにかの人間か。できればそうであってほしい。彼女の正当性は俺が保証するが、だからといって人を3人も殺した人間がどうなるかはわからない。
俺の傷はふさがるのを待つだけの些細なものだった。彼女が受けた暴行に比べたらかすり傷にもならない。あいつらはいわゆるギャングで表向きはビジネスマンを気取っているが裏では犯罪行為もいとわない連中だ。逮捕歴もあるし、俺が恨まれていたのも想定内だ。彼女は自分の身は自分で守れるくらい空手なのか知らないが、そういうのに長けているのは事実。あの時、一人でジョギングに行かせていれば巻き込まれることもなかったと思うと、どう償っても償いきれない。俺のミスだ。
普通なら彼女が連中にしたように、殺されていて当然なのだが、彼女は奇跡的に生きている。ただし意識不明の状態が二時間続いている。俺も休むように言われているが、廊下で立ち尽くしているしかなかった。ジョシュアがきた。今週、この光景は二度目だ。
「すまない」
「すまないだと?何故こんなことになるんだ」
前回と違ってまさか自分が謝罪することになるとは。今回の件は完全に自分が原因で、彼女は巻き添えだったということを説明した。ジョシュアは怒りをどこに向けたら良いかわからないようだった。それ以上、言葉を発することなく病室へ入っていった。
ああ、またこの夢か。ビルの屋上から一軒の燃えさかる建物をみていた。あの中に彼はいるのだろう。何故、生きようとしなかったのだろう。逃げようと思えば逃げられたはずなのに。私を解放したつもりかもしれないが、解放じゃない。捨てただけ。わかっている?
残念だけど私は絶対に復讐するから。違う。そうじゃないのに。一人の女として悲しいわけじゃない。別に。屋上の端に向かってダッシュした。なにもかもにさようならだ。
でも、風が私を引き戻した。彼が私を抱えて「死ぬな」と言った。私は彼が生きていると思って泣き叫んだ。私たちはその夜、ビルの一室でお互いを慰め合った。彼じゃないのに。彼以外の人とセックスするのは初めてだった。
我に返ったとき、隣に寝ているのが彼ではなく彼の双子の弟だと気づいた。気づいた?違う。始めから弟だと知っていた。彼は燃えたのだから。同じ顔でも中身は正反対の双子。自分がどうしたいのかもわからないまま、私は消えた。今となっては、もう彼らの顔もあまり覚えていない。その日から、私は適当に生きてきたのだ。そのうち天罰が下ると思いながらそれを待ちわびていた。
長い間、眠っていた気がした。目を開けると、夢での汚いベッドから一転、清潔なシーツの上に体を横たえていた。ここはどこだろう。腕に刺さっている点滴をみて病院だということはわかった。逆の手を動かそうとしたが、動かない。何かが私の手を掴んでいる。視線を手の先へ向けると、男の子が眠っていた。手に力を入れると、男の子がその美しい顔をこちらに向けて安堵したようにほほ笑んだ。
ふふ。ここは天国かもしれない。しばらく見つめ合っていると、ドヤドヤと人が入ってきた。
「気分はどう?」
医者らしき人が何か言ってくるが、何を言っているのかわからない。日本語?じゃない。隣の看護師らしき人の名札が見えたが、アルファベットで書かれていた。ここは日本じゃない?
男の子をもう一度見た。外人だ。全員、外国人だった。つまりここは日本ではない。
「自分の名前、言えますか」
英語だ。私は日本語で答えた。
「ここは?」
それを聞いて、その場にいた全員が驚いて顔を見合わせた。しばらくすると別の看護師がきて日本語を話し始めた。
「私は日本人です。大丈夫?」
「ここはどこですか?アメリカ?なんでこんなことになってるのか教えてください」
どうも私は怪我をして記憶が飛んでいるらしい。未だに私の手を握り続けている彼は誰なのかと聞いたが、彼は医者から答えないように指示されて、部屋から出て行ってしまった。
頭が痛い。そのまま、また意識が無くなった。
その夜、人の気配を感じて目を開けると、知らない男が立っていた。知らない、さっきの男の子とは違う、見たこともない、というとかなり怪しいのだか。記憶がないのだから知り合いかもしれない。ともあれ、体が思うように動かない私はただ彼に身を任せるしかなく、そのうちまた眠ってしまった。
「その女に三人ともやられたってことか」
アニーという男は自分の配下の者が三人も殺されたことに少なからずショックを受けていた。三人とも怖いもの知らずの腕っぷしの良い連中だった。暴走するのが好きなのか、少々手を焼いていたのは事実だが、かといって殺されて良しとはできない。それが女一人に、クラブで殴り殺された?しかもそれは正当防衛で処理された。確かに、警官を殺そうとしたのは事実らしいが返り討ちにあって結局、こっちが犯罪者というわけか。面白いじゃないか。
ボブに聞くと、女は日本人。興味をそそる女だ。顔を拝みにでも行くか。
そう思ったら行動が速い。ボブには止められたが、結局病院スタッフになりすまして、その女の病院へもぐりこんだ。警備の人間が居なくなった一瞬をみて部屋の中に入ると、女が死にそうな顔で寝ていた。細い腕が見えている。こんな華奢な女が本当にクラブを振り回したのだろうか。そう思ってみていると、女が目を開けた。突然だったので自分の心臓が飛び出る勢いだった。ホラー映画じゃあるまいし勘弁してくれ。その時、何を思ったか、自分の腕が勝手に動いて彼女を抱えようとしていた。
彼女にまとわりついている何本かの管を抜いて、シーツにくるんで抱えると、俺はドアをそっと開けて廊下に出た。夜だから薄暗いし誰も居ない。異国の女のための警備などこんなふうにいい加減なものなのだ。すぐに非常階段へ入ると、そのまま地下まで下りて、ボブの待つ車へ彼女を運んだ。
移動している間、ずっと抱えたまま彼女を見ていたが、三人を殺した女だと? 怒りを通り越してむしろ愛おしい感情さえわいてくる不思議な女だと思った。
ボブが仕入れた情報によると、彼女は記憶が無いらしい。昏睡状態から目覚めたばかりだから、すぐに何もかも思い出す可能性もある。腕の怪我はイギリスについて早々に、あのキラキラしたバンドのメンバーのせいで刺されたらしい。なんとも普通の境遇ではない。あんなチャラチャラした男のところで危険な目にあうくらいなら、危険のど真ん中にいたほうがマシだろう。
面白くなってきた。
ほんの数分、用をたして戻った警官が看護師と一緒に部屋の中へ入ると、そこはすでにもぬけの殻だった。サムやジョシュアも戻ってきたが、状況が把握できずにいた。
「どうなってる」
バタバタと警官が集まりあちこち捜索し始めた。最終的に地下の防犯カメラに映った人物をみて、俺は顔面蒼白になった。
「何のために離れたと思ってるんだ」
殺人の記憶など無い方か良いからと言われて、とりあえず姿を消したのに連れ去られるなんて。ジョシュアは頭を抱えた。
「すまん」
俺はまた謝ることしかできなくなっていた。よりによって、あいつに連れ去られるとは。何のために。まさか殺すとも思えない。嫌な予感がした。
「サム。今日はいったん帰ったら。休んだ方がいい。」
同僚が声をかけてきた。俺はうなずいてはみたが、自分の車に乗り込んでからそこで少しだけ仮眠をとることにした。
どうやら私の記憶は、東京ビッグサイトに行ったところから抜け落ちているらしかった。
鳥の鳴き声が聴こえてきて目が覚めた。何かがおかしい。病院にいたと思ったら今度は、ここはどこだ。点滴も刺さっていない。ゆっくり起き上がると広い部屋の中でポツンと立っている男に目がいった。男がこちらに気づくと、ベッドまでやってきた。誰かもわからない。
「気分は」
「はい、あの」
言葉につまづいた。やはり英語圏なのだ。今度は日本人がくる気配もない。私がまだ錯乱していると思い込んでいるその男は名乗った。
「思い出してくれ。俺はアニーだ。お前の恋人だ」
え、そうなの? わからない。そもそも何故イギリスにいるのだろう。さっき、ここがイギリスの病院だと言っていた看護師はどこにいったのだろう。何か面倒な事件に巻き込まれているのは想像できたが、何年か前にそういう仕事はやめたはずだ。この数カ月の記憶が飛んでいるらしい。思い出さなければ。
アニーは言葉も発することができない私を支えて、横になるように優しく言った。まずは整理しないと。私のパソコンはどこだろう。持っていないということは相当やばい状況なのかもしれない。
「余計な情報は与えない方がいいらしいですよ」
ボブが言った。こいつの言うことももっともだ。だが俺は興味本位で見舞った女を、連れ帰ってきたのだ。すでに部下たちは俺がこの強い女に惚れたと思っている。否定はしない。もう少し様子をみるつもりだ。殺す時がきたら殺す。どういう女か知りたかった。
また少し意識が飛んでいたようだ。病院で一度目覚めた時の記憶はある。それ以前の記憶、どうやって海外に来るに至ったか。それが問題だ。情報が欲しい。思い出すのは夢だけだ。夢だけど現実だったのだろう。そこも覚えていないのは以前からだろう。普通の生活をして、そうだ、ビッグサイト。用事があってあそこに行ったが、何をしに行ったかは思い出せない。
パソコンが欲しい。アニーに頼んでみるか。今日が何月何日かも知りたい。
ベッドから起き上がって、窓の近くへ歩いた。頭は痛いが何とか歩ける。腕の傷もいつつけたのだろうか。調べることが多すぎる。
外を見ると、全く見覚えのない大きな庭が広がっていた。自分がいるところがとんでもない豪邸だということに気がついた。玉の輿にでものるつもりだったのだろうか。はあ。溜息をついていると、ドアが開いてアニーが入ってきた。
「大丈夫か」
「ええ、あの、シャワー浴びたいんですけど」
私がいつからここに居るのか尋ねると、数か月前からだと彼は言った。ここにあるものは全て私のものだと。でも命より大事なパソコンはない。バスルームに入ると、着替えもタオルも置いてあった。ホテルにあるようなアメニティーもそろっている。そう、ホテルのようだ。私だけの部屋。違和感が丸出しだ。
傷があろうとお構いなしでシャワーを浴びてしまう私に、アニーが驚いているのもおかしな話だ。バスルームから出てくると、彼自身が手当してくれた。
「君は我慢強い女だな」
傷を診ながら彼がつぶやいたが、そういえば未だに私のことを名前で呼ばない。最後に名前を呼ばれたのがいつだったか思い出せない。記憶喪失のせいなのか、呼ばれたことすらないような生き方をしてきたのか。私の名前って。どれ。
「アニー?」私は彼が私の名前を知っているかさえ疑問に思って聞いてみた。
「なんだ?誘ってくれてるのか?ユキ。」
さらりと言ってのけ、私の首に手を回してきた。そう、私はユキだ。セックスしたら思い出すだろうか。本当にこの人と寝たことがあるのかないのか。好奇心だった。頭を打って病院から出てきたばかりであろう私を抱こうなんて、どんな野蛮人かと思ったが、アニーはその持ち合わせた優しさを私に示そうとしてくれた。それはどことなく記憶の片隅に残っている感情を沸き立たせてくれていた。
夕食を2人で食べた。料理は料理人が作るらしい。数か月、私はこんな生活をしてきただけなのか、感覚的にはイギリスにきてからまだ一週間も経っていない気分だった。おそらく自分の勘の方が正しいだろう。一人の部屋だと思っていたが、夜もアニーがずっとそばにいた。いてくれた、と言った方が良いのかもしれない。何となく懐かしい居心地の中で、久しぶりに熟睡し、夢を見ることもなかった。
翌朝、アニーがぐっすり眠っているうちに、私のために置いてあるであろう服に着替えて庭に出てみた。ここがイギリスのどの辺なのか検討もつかないが、とにかく広い。奥の方に柵があり二頭の犬がこちらを見ていた。
「ハイ」と小声でつぶやいたのに、聞こえてしまったかのように犬たちが反応したのがわかった。番犬だ。不審者であろう私をみつけて、こちらに来ようと柵に体当たりしている。ワンワン吠えるのでアニーに気づかれそうだ。
「シー」
言ってみたが効果はなく、数回のタックルで柵が倒れてしまったようだ。
「逃げろ」
うしろから男が叫んだ。誰だ。庭の見回りでもしていたのだろうか。その声を聞いて、振り返ると、部屋からアニーもこちらを見てすぐに消えたのが見えた。ものすごい勢いで犬たちが走ってきた。残念だけど私は動物には好かれるタイプだ。たぶん。もちろん人間以外の、かもしれないが。
駆けつけたアニーが、驚いた顔でこちらを見ていた。犬たちは急に大人しくなって、ベンチに座る私の膝にちょこんと顎を乗せていた。私は両手で頭を撫でてやった。
「いい子」
「あ、ああ」
こんなに懐いているのに、なんでそんなに慌てて駆けつけてくるのか。この家の従業員らしき男の「逃げろ」も私がこの子たちと初めて接触したことを証明しちゃっている。あまり深く考えないようにするか。リビングに戻る途中で、アニーが「俺の傍を離れるな」と言った。その声、前にも同じようなことを言われた気がして、実は私たちは本当にこの数か月の間も恋人同士だったのかもしれないと錯覚した。
頭を打ったせいで、体がだるい。誰もこの数か月に何があったかを教えてくれない。ノートパソコンが欲しいと言ってみたら、アニーの隣にいるさっきの男がすでに用意したから午後には届くと教えてくれた。ボブ曰く、スマホについては元々持っていなかったらしい。とりあえず頭痛のせいであまり深く知りたいとか、考える気力も無くしていると思われているようだ。確かに、聞きもしないのだから教える必要もない。ボケっとしながらもあれこれ自力で思い出そうとする。その度に頭痛が始まるので思い出そうという努力が出来なくなっていた。鎮痛剤をもらってアニーにもたれかかっていたら、心地よくなって眠ってしまった。これがまさか睡眠薬だとは思いもしなかった。
「あいつが来ました」ボブが外を眺めながら言った。
そろそろ来る頃だろうと思っていた。中には入れるなと言い、俺はソファに彼女を残して部屋を出た。玄関に向かうと、あの警官が立っていた。一人か。相変わらず恐れを知らないやつだ。
「彼女を引き渡せ」
「お前のところにいたらまた殺されかけるぞ」
「彼女はどうしてる」
「落ち着いてるよ。ずっと俺と暮らしてきたことを信じているようだしな」
「何だって?何が目的なんだ」
お前の女でもないのになんて顔してやがるんだ。やれやれ、ここにもあいつに惚れた男がいるわけか。それなら話は簡単だ。
「サムさんよ。気づいてるか?今が一番平和だということに」
俺があいつに執着しているうちはお前が殺される危険もない。部下もみんなあいつに惚れそうな勢いだしな。
「この3日間、悪さをしたやつは皆無だ」
「なぜ彼女なんだ」
サムがわかりきったことを聞くので思わず噴き出した。
「お前と同じじゃないのか。安心しろ。彼女は安全だし、なんなら幸せに過ごしている」
サムが頭を抱えるしぐさをすると、追い打ちをかけるように俺は言った。
「ジョシュアとかいう軟弱な男よりもあいつはお前や俺みたいな頑丈な男が好きだと思うぞ」
「記憶が戻ればまた別の話だ」
「ああ、その時はその時だな」
ジョシュアになんて報告するつもりだかわからんが、彼女のことを考えたらそっとしておくのが最善だと警官ならわかるだろう。そもそも彼女はこの国ではまだ誰のものでもない。誰に捜索願を出す権利がある?
彼女のパソコンがあるならこっちにくれないかと言ってみたが、それは出来ないと言われた。今頃、中身を全部みられているのだろうな。俺もみてみたいものだ。
部屋へ戻ると、眠っている彼女をベッドへ運んだ。しばらく寝顔を見ていたが、こいつがどういう人生を送ってきたのか、ものすごく興味がわいてきた。ここ数カ月の記憶はないとしても、それ以前のことをどうやって聞き出そうか、いっそ事実をぶちまけたほうが良いのかもしれない。意外とあっけらかんと受け入れそうなタフな女だろうから。そのうち記憶も戻るはずだ。とりあえず外に警官が張り込んでいることは気づかれないようにするか。それもどうでもいいか。
気づいたらベッドに寝ていた。寝てばかりのような気がする。これでは体が鈍ってしまいそうだ。ベッドの上で軽くストレッチをしていると、アニーがパソコンを持ってきてくれた。渡英するのに私がパソコンを置いてくるはずはない。イギリスのどこかにあるはずだ。もしかしたら今頃、誰かが懸命にログインを試みているかもしれない。おそらくそれは不可能だ。でもそうなるとまたあらぬ疑いがかけられそうだ。一般人は基本的にすぐに抜けられてしまうようなセキュリティー状態でパソコンを使っている。警察くらいのレベルでも簡単に覗かれてしまう。それが出来ないとなると、持ち主は何者だという話になりかねない。そのうち警察が来るかもしれない。いや、よくよくだが私はどこにも属していないのだから、私がどこにいるかなんて誰が気にしているだろうか。病院の人が私を捜してくれているのかどうかもわからない。
誰かに見つかるまでには何もかも思い出しておかないと。でも私は気づかれない。そういう不安と安堵がごちゃまぜになった。
「ありがとう」
と言って、早速、今日が何日かを確認した。今がいつかなんて、その辺の人に聞けばよかったのだろうが、思考に集中するためにあえてやめておいた。理由もわからずに日本で東京ビッグサイトに行った日付から、数か月だった。インターネットにつなぐと、今日のトップニュースが画面に出た。人気ボーカルグループ活動休止を発表。どこの国でも似たような記事しか出ないのか。スルーしてさりげなく他のニュースもチェックする。後ろで見ていたアニーが私の頭に手をあてた。
「出かけてくるからまたディナーで会おう」
そう言って部屋から出て行ってくれた。気配が無くなるのを確認すると、数日前の記事のチェックを始めた。特に気になるニュースは無い。それはそれで違和感があった。邦人が怪我した記事など載らないものなのか。思いつくジャーナリストのサイトへ移動。上手く裏に入れるところが無いか、跡が残らないように注意深くみていった。
「あった」
二日前の記事だ。ヤクザに警官が襲われ、近くにいた日本人女性が警官を助けた。という見出しと、日本人女性がヤクザ三人を殺害、正当防衛か。これも同じ事件のようにみえる。写真も画像も一切ないが、これは間違いなく私だろう。その後、この邦人がどうなったかは書かれていない。あ、これもか、日本人女性、頭部を殴られて重体。
同じ日、ジョシュア.Bの恋人がホテルで襲われている。これは関係ないか。ん、まてよ?ジョシュア。さっきのトップニュースへ戻る。ボーカルグループ活動休止。恋人が連日襲われたショックでジョシュア.B体調を崩す。復帰は未定。
時間がたっぷりあることを確認して、私は入国データのチェックを始めた。自分の名前を入れる。どの名前を使ったのか思い出せない。というより偽名で渡英するわけがない。素直に本名で調べるとあっさり出てきた。そういえばアニーも本名を知っていたか。少なくとも「仕事」で来たわけではなさそうだ。アニーの嘘つき。五日前の入国履歴をみて、自分がまだこの国へきて五日だという事実が判明した。しかも来たその日に腕を怪我。すべて辻褄が合う。アニーとの時間はたったの二日という現実。一体、どういうことだろう。そもそもジョシュアが恋人?私が男のためにわざわざイギリスに来たとでもいうのだろうか。病院で手を握っていたのがジョシュアだとわかったのは収穫だが、その前も、その後の出来事も謎だらけだった。もう自分で思い出すしかない。
夕食時、あまりに沈黙しているのも変だと思い、昼間みたニュースについていろいろ質問してみた。もちろん私が見られるニュースは限られているので、とりあえずあのボーカルグループについて聞いたが、アニーがひたすら「俺は嫌いだ」と言うので面白くなって、誰が好みだとか、彼らの話題をできるだけ長引かせた。もう体調も良いから彼らが復活したらライブを観に行きたいと言っておいた。私がここに居るうちは、復活はないだろうというような余裕顔でにっこりうなずく彼をみて、少し可愛いと思った。この人も、悪い人ではないのだ。
「明日の予定は?」
「仕事で出かける」
「仕事は何してるの?」
「いろいろだよ。一応、社長だしな」
「ふーん」
どうみてもヤクザにしか見えないけどね。三人のやんちゃな手下がボスに内緒で警官に復讐しようとして返り討ちにされた。ボスは何故私を殺さないのだろう。好きにさせたとろころで裏切ってメンタル的に復讐する計画かもしれない。それかそのつもりだったが本当に私のこと好きになっちゃったかな。はあ。こういう妄想癖は治らないものなのか。でも自分は確実に回復していると思った。好きだの嫌いだの、実際のところほとんど興味がないのが本来の私だ。何故かその分、妄想してしまう。全ての男は自分に好意をもってくれるという妄想癖は健在だと思った。
「私も一緒に行っていい? ここにいるのにも飽きちゃったし、外に出たいし」
「いいけど邪魔だけはするなよ」
あっさりオッケーで拍子抜けしてしまったが、これで少しだけ明日が楽しみになった。
翌朝、彼がスーツを着るので私も合わせてパンツスーツを選んだ。本当はジャージが良かったのだけど、スカートとかドレスでないだけマシだ。
玄関に出ると、ここ数日で、と言っても2日間だが、すっかり顔を覚えた数人の親切な使用人たちが待っていた。一緒に行くのだろうか。
「ユキさん、スーツも似合ってますね」
口々に褒められて不覚にも嬉しくなった。この人たちはちゃんと名前を使うのに、アニーはめったに言わない。偉そうな人は相手のことを「おまえ」とか「おい」とかで済ましがちだ。でも親しい間では名前なんか呼ばなくても相手のことを指しているわけだし、結局名前なんてどうでもいいのでは、というのが私の結論だ。昔からそうだ。別に恥ずかしくて言えないわけではない。ボスもそうなのだろう。じゃなければ、部下が自分の女を名前で呼び捨てしていたら怒るでしょ。普通は。
そんなことを皆で話していると、ボスがやってきたので車に乗って出発した。
「どうなっているんだ」
彼女があの連中と楽しそうに会話をしているのを遠くから眺めていた俺はつぶやいた。俺たち警察が彼女を救出するチャンスに恵まれたとしても、あれじゃこっちがやられるかもしれないじゃないか。あいつ、それがわかっていて連れ出したのか。余裕じゃないか。彼女の記憶がいつ戻るかなんて誰にもわからないというのに。
昨日のことをジョシュアに話したが、彼は
「彼女が無事なら、それでいい」とだけつぶやいてまた部屋に籠ってしまった。メンバー三人が代わる代わる自宅を訪ねては様子をみている状況だ。彼女が戻ったとき、歌うのをやめたお前をみたらがっかりするだろう。そう説得されて、かろうじて新曲のレコーディングの準備は進めているようだが、いつまで続くかわからない。そもそもチャラ男か王子様キャラのジョシュアだ。もしかしたらもう彼女のことなど忘れたいのかもしれない。新しい出会いを求めたいが、まだ早すぎるという思いで耐えている可能性もある。彼のせいで彼女が怪我をしたのも、俺の方の事件がデカすぎて責任も薄れた可能性もある。それならそれでいい。彼女に責任をとる役目は俺が引き受ける。
そう思って車のラジオをつけると、彼らの曲が流れていた。
君は僕から離れていかないよね。
信じている。信じている。
君が居なくなったら僕は。
誰に嫉妬すればいいの。
「ちっ」俺はラジオを切って、追跡に集中した。
ビジネスというわりには、こんなショッピングモールの一角で立ったまま取引するのか。さすがヤクザ。
アニーの腕につかまってキョロキョロしてしまった。私にとってはこっちにきてから初めての外出のようなものだ。ほどなく取引相手がやってきて、商談らしきことを始めた。まだ立ったままだ。映画みたいだな。と思いつつも、退屈になった。つまらない。するりと彼から離れ、とりあえずトイレに向かった。アニーが目配せすると、ボブともう一人が追いかけてきた。
「私、ちょっと外の空気吸ってくる」
「え、ダメです。ボスの傍にいてくれないと」
「大丈夫、すぐ戻るから、仕事に戻ってよ」
「いや、無理です」
「なんで?大丈夫だよ。私、強いんだよね?」
「え、ええ」
「ほら、あの展望台?行ってみたい」
そういうと、ボブの返事を聞かずにトイレに入ってそのまま裏口から外に出た。二人がトイレの前で待っていられるのも数分くらいかな。展望台、上がれるかな。高いところが好きな私は興奮した。
尾行してきた警官たちも、トイレの前を見ているはすだ。
広場の真ん中にある小さな展望台にはエレベーターもあったが、ほとんどの人が階段で上がれるくらいの高さだった。それでも景色は最高だった。風が心地よい。遠くが見える。
「ああ」
声がしたのでデッキの反対側を見てみると、女の子が半泣きになっていた。
「諦めよう、他のを買ってあげるから」
父親らしき人に言われてもグズグズしている。かわいそうに。どうやらお気に入りのスカーフが風に飛ばされたらしい。父親が手すりにつかまって上や下を覗いてみる。
「あ、あった」
身を乗り出してみるとスカーフの先っちょだけが斜めになっている屋根にかろうじて引っかかっていた。
「取れないよ。危ないからそろそろ帰ろうか」
父親が言うと、女の子はとうとう泣き出してしまった。
私は無意識のうちに、手すりから身を乗り出し、屋根の縁に足をかけ、くるっと勢いで屋根に上っていた。一瞬にして私が消えたので、父娘はさぞびっくりしただろう。親子が状況を把握しきれていないうちに、私は丸めたスカーフをテラスに向かって投げ入れた。父親の方が「大丈夫ですか」と声を張り上げたので、係員も駆けつけてきた。下で大騒ぎになっているようだったが、私は屋根の上で立ち上がり、全身に風を受けて感動していた。この感覚。何か思い出して。
騒ぎを聞きつけて、地上にはたくさんの人が集まりつつあった。警官らしき人もいる。あれ、大事になっちゃうかな。なんか頭のイカれた女にされそうだ。でも、もうしばらくこのままでいたい。深呼吸した。
「おい、何やってるんだ」
アニーの声がした。テラスまで来たのか。
「何って、スカーフが飛ばされたから取ってあげただけ」
「頼むからそこでじっとしていてくれ」
別の声が聞こえた。誰?
「一体、どうやってあそこに?」
「どうすればいいんだ、ちくしょう」
「おい、動くなよ」
「すぐ助けに行くから」
2人の声が交互に聞こえてくる。一人が屋根に手をかけようとしたので、慌てて言った。
「大丈夫、今戻ります。下がっててください」
そう言って、テラスに下りようとまた屋根の縁に手をかけた。その瞬間、どこか、ここではない別の場所、もっと高いところにいる自分がいた。手を離したい衝動にかられた。
「え」
と思ったら、手が伸びてきて私はテラスに引きずり込まれた。
「誰」
知らない人に抱き留められていた。手に包帯を巻いている。もしかして例の警官か。この際だ、少し話がしたい。
「あなた、どこかで見たことある」
言いかけた時、アニーが私を引きはがした。包帯の手が私の腕をつかんだ。
「いたた」
「あ、すまん」
警官が手を離した。
「手、どうしたんですか」
答えを聞くこともなく、アニーによって下へ降ろされた。
私の肩を抱いたアニーが深い溜息をついて、帰るぞ、とつぶやいた。車の中でぼんやり考えていると、飲んで、というしぐさで彼が水とサプリを差し出してきた。ああ、鎮痛剤という名の睡眠薬ね、記憶が戻らないように結構がんばっているんだ。何のために? 記憶が戻ると殺さなきゃいけないからか。ブツブツ声にはなっていないと思うが、日本語だから彼には理解できないだろう。言いながら眠ってしまった。ジョシュアは何してるんだろう。え、ジョシュアって誰。
「そろそろ潮時なんじゃないですか」
運転しながらボブが言った。
それは俺もわかっているつもりだ。遅かれ早かれ、記憶は戻る。考え事をさせないように睡眠薬ばかり飲ませてきたが、そうまでしてこいつを留めたいのは、単に興味があるだけではない。
「愛ってやつですかねぇ」
ボブが言うので、その頭を叩きそうになったが思い直して手を引っ込めた。
明らかにここに居てもこいつは幸せではないだろう。安全ではあるが。しかし、あのヘタレの傍にいたってそうだろう。警官でも同じだ。あいつは自由を好んで誰のものにもならないか、誰のものにでもなるか、どっちかだ。どっかのスパイ並みの身体能力と攻撃力は俺の仕事にも必要だ。俺たちは仕事の上でもベストパートナーになる気がしていた。
家に着いてから着替えさせ俺も少し休んだ。数時間後、そろそろ目覚めるか。ベッドに腰かけて彼女の頬に触れようと手を伸ばすと、急に目を開けてこちらをみた。また俺はドキッとさせられた。
「誰」
恐怖に怯えた顔は初めて見る。
誰だと? 「誰」、そう言ってまた眠ってしまった彼女に触れながら俺は決心した。これからは正々堂々とこいつと向き合おう。
「まあ運命ならまたチャンスはありますよ」
そう言いながらも残念そうにのちこちと車を走らせるボブに「お前はもう忘れろ」とつぶやいて彼女を抱きかかえる手に力を入れた。奴の家にはまだ警官がいるのか。ちょうど良い。少し離れた場所にシーツにくるんだ彼女をそっと寝かせた。車を出し警官の前を通るときに、「いったん返す」と後ろを指さしてそのまま走り去った。後方で、警官が彼女を発見し慌てふためく様子が見えた。
またこの夢。前世で自分が双子だったか、双子に裏切られたか、そうでなければこんなトラウマになるような経験ばかりするはずがない。好きになった人がたまたま双子で、もう一人同じ顔の人間が後から現れるのだ。誰も悪くない。でも双子の結束は固い。私のためにケリをつけたと思われたが、なんのことはない、陰のために命を投げ出しただけだった。到底そんなことで納得できるはずもない。私も陰も残された方はたまったものではない。結局死ぬことすらできずに、ビルの屋上から落ちて死ぬ恐怖に悩まされて生きてきた。あの人がどうしているかは知らない。道を踏み外していなければいいけど、表に見えてこないということは、兄の跡を継いだのだろうか。離れてしまった私たちを彼はどう思って天から見下しているのか。怖くて死ぬこともできずにいる。
「ハイ」
ジョシュアがこっちを見ていた。それ以上何も言ってこない。怒っているのかな。でも泣いているようにも見える。
「あれ、私、なんで寝てるの」
サムと一緒にひとっ走りしに家の外へ出たはずなのに。
「もしかして倒れちゃった?」
まさか。恐る恐る聞いてみた。
「そうだね。倒れてた。でも無事で良かった」
そう言って彼はベッドに顔をうずめた。そんなに心配したの。ちょっと嬉しくなった。
すぐに医者がやってきて、ジョギングに出たのは三日前で、その間の記憶が抜け落ちていることを知らされた。何があったのかは誰も教えてくれなかった。何もなかったとジョシュアは言ったが、三日間も意識が無かったのなら病院にいるはず。サムはどこにいるのだろう。話したい。彼なら知っているに違いないと思った。
翌日。この病み上がりのようなふわふわした感覚がしばらく続いている間、私はおとなしく部屋にこもって机の上にある私のノートパソコンを眺めていた。どことなく他人行儀になったジョシュアはそれでも私の傍にいつもいたが、まさか彼が仕事を休んでいるとも知らずに、他の三人の様子を聞いたりして時間を過ごしていた。キラキラ感がなくなったわけではないが、彼の私に対する愛情があったとしたら、それも半分以下に減ってしまったようにも感じた。去る者は追わず主義の私は、自分が捨てられる、傷つけられるのを恐れて完全に壁を作ってしまった。そうだ、もともと一週間ほど彼との交流を楽しむつもりで来ただけなのだ。
「私、そろそろ帰るよ。予定通りに」
ジョシュアの反応はかなり曖昧だった。安堵なのか不安なのかわからない表情。思い切って続けた。
「ほら、記憶が戻らない方が良いって思ってるでしょ」
戻るころには遠い日本にいるのがベストだ。たぶん。
「ちょっと待ってて」
そう言って部屋を出た彼だが、誰かに相談しに行ったのだろうか。窓から警察の人も見える。しばらくしてサムが部屋に入ってきた。
「失礼」
「ハイ」
何か久しぶりだ。やはり聞くべきなのかもしれない。何があったか知っているのは彼だけかもしれない。
「君が日本に帰る話なんだけど。いろいろあってまだ出国は無理だ」
「いろいろ?事件は解決したんでしょう。ホテルの男は何者だったの」
「ああ、そっちは解決したんだけど」
聞くと、ジュリはやはり自殺していた。双子はどちらかが欠けるとそれだけで生きられない人もいる。男の方はキャサリンのおっかけ信者みたいなモブで、頭がいかれていたらしい。サムを狙った、というオチで良いと思うけど、警察は私への攻撃だったと結論付けたようだ。どうでも良いが、つまり私がこの国に拘束される必要はもうない、はず。
「その手、どうしたの」
ふと私は彼の手の甲に絆創膏が貼られているのに気づいた。
「ああ、たいしたことじゃないよ」
そういって右手を隠した。怪しい。もしかして帰国できない理由がそこにあるのかもしれない。
「何があったか教えてくれないなら、自分で調べるだけよ」
私はパソコンをチラ見してみせた。彼が隠し事を出来ないように、私も自分をさらけ出す作戦に出た。
「もうわかってると思うけど、私、ハッキングが特技なのよね」
じっと見つめてくる。
「若いころは、ぶっちゃけ、クラッキングもやっていたけど」
「わかった。はっきり言おう。君は三人殺している。正当防衛という理由はあるから逮捕はされないが、そのせいでマークされているのが事実だ」
彼が申し訳なさそうに事件について教えてくれた。なるほど。そりゃクラブで殴られたら記憶も飛ぶわ。やられたらやりかえすのも当然。サムが木の根元にピン止めされた姿は想像できないが、ジョシュアの罪悪感が前ほどではなくなったことには納得ができた。
「お願いがあるんだけど。」
「なんなりと」
これ以上、ジョシュアの世話にはなれないから、どこか部屋を借りて住めるようにしてくれないか。そう言ったら「善処する」と言い残して部屋を出て行った。
ジョシュアが活動休止しているのも私の責任だが、もう解放してあげたい。彼は「ダメだ、ここにいて」というようなセリフを返してきたが、いろいろありすぎてお互いに疲れているからと、一人になりたいとお願いした。彼にはキラキラと歌っていて欲しいだけ。運命ならまたいつか引き寄せられるだろう。
すぐにサムの部屋の近くに似たようなワンルームを借りることができた。サムが世話してくれたのだが、ジョシュアは首をかしげて納得できないような素振りをみせた。
「いつでも戻ってきてほしい」
優しい言葉を鵜呑みにしないように気をつけて、彼に別れを告げたのだった。
彼に出会わなければ、今は無いのに。すっかり第三者みたいに思えてきて、おかしくなってしまった。おい責任とれよ。って叫びたくもなったが、我慢した。自由を選んだ方がマシだ。たとえ異国の地で犯罪者扱いされても。
古びたワンルームとはいっても、日本とは比べ物にならないほど広い。やっと一人になり、備え付けの椅子に腰かけて力を抜いた。
はあ。もっと楽しい人とデートしたいわ。前向きに考えよう。買い物でもするか。自分の口座をチェックしたら、このあいだの企業から入金があった。細々とここに居る間は暮らせそうだ。必要なものはだいたい揃っている。日本とは違うところだ。近くのショッピングモールへ行こうと外に出たら、サムが付き合うと言ってついてきてくれた。
「ねえ、どっちかというと、あなたの方が危険度高いよね?」
「まあね」
「ついてこられるとまた何かありそうで怖いんだけど」
私が笑いながら言うので、彼も笑った。なんか変な感じがした。今度は彼が私に対して罪悪感を抱いてしまっているのだろう。でも彼は警察官だし、仕事の一環と思えば普通のことか。それに、ジョシュアの家から解放された警官たちがそのままついてきているし。殺意も感じない。
純粋にショッピングを楽しもう。
ジョシュアの元に返した女が今度は俺との記憶をそっくり無くしたらしい。あいつは思い出したくない記憶を自ら消す能力も持ち合わせているのか。だがこれで俺も無事にスタートラインに立ったわけだ。ヘタレと別れたあいつの隙間に、あの警官が入り込む前になんとかしないと。
どうやって、さりげなく、彼女と面識をもたせるか。考えながら後をつけていると、小さな女の子が彼女の前に立った。
「お姉さん、大丈夫?」
「え」
「この前はありがとう」
「ん?」
何のことだろう。聞くと、飛ばされたスカーフを華麗にキャッチして取ってあげたらしい。サムのやつ。頭を殴られてから目覚めるまでずっとベッドに横たわっていたと信じていたのに。知っていることを全部聞きたかったのに、まだ話していないこともあるのか。後で確認しないと。いや、やはり自分で調べるべきだった。サムがアジア系の店をみつけて中へ入っていくのが見えた。見張られているだけで、守られてはいないのかも。そう思ってパン屋のショーケースを眺めていると知らない男が声をかけてきた。
「ここのは不味いから買わない方がいいぞ」
「え、あ、どうも」
ご親切に。
「さっきから君、いろんな人に見られているようだけど、気づいてる?」
「え。はあ」
もちろん気づいてますけれど。気づいてないフリとかするべき?って、随分と馴れ馴れしい人だ。イギリス人てこんな感じの人が多いのだろうか。吸い込まれるようにその人の目を見ていたが、彼も視線をずらさない。彼の手が動いた瞬間、
「おい」
サムが割って入ってきた。助かった。
「何してる」
「彼女がここのパンを買おうとしていたから止めただけさ」
「ここは美味しいと評判の店だぞ」
「いや俺はお勧めしないね」
この人たちは何を話しているのだろう。二人の顔を交互に眺めていたが、仲が良さそうだ。
「知り合い?」
私が口を挟むと、口をそろえて「違う」と返ってきた。息ぴったりだ。思わず吹いてしまった。
「仲が良い証拠ね」
私が言うと、気まずそうに黙ってしまった。私が待っていると、その人が口を開いた。
「俺はアニー。宜しく。」
「ハイ。ユキです」
手を出してきたので握手かと思って私も手を出したが、いきなり掴まれて引き寄せられそうになった。お? 思わず受け身を取ろうと肘を固めたが、ついもう片方の手が相手の首に伸びて触れそうになってしまった。しかしその男の方が上手だった。その手を軽く叩くようにかわされたかと思うと、抱きしめられてしまった。
「おい」
サムが瞬時に引きはがす。
「なんだよ、ハグもだめなのか」
アニーが不服そうにこちらを見た。あれ。なんか同じことがあった気がする。彼もまた私を見つめる目をそらさない。
「あなた、どこかで会った?」
「さあ。どうだろうな」
ニヤッと笑って、バイバイと別れを告げて去って行ってしまった。
「誰だっけ」
もし、会ったことがあるとしたら、それは空白の三日間だろう。やはり帰ったら調べてみるか。
サムが、あいつとは関わらない方が良いというので、話してくれるかと問い詰めたが、右手をプラプラ振ってみせるだけだった。
「え、なに?」
部屋に戻ってシャワーを浴びた。急に睡魔に襲われたがアニーが何者かだけ調べておこう。どう調べても、日本でいうところのヤクザだった。私が殺したのは彼の配下だったのだろうか。今日の様子だと、別に彼の命令とかではなさそうだ。もしそうなら私は生きていない。どこか親近感がある。接点があったとしか思えない。調べるのが怖くなってきた。自力で思い出さないといけない気がしてきた。パソコンを閉じて、ベッドに倒れこんだ。
はあ。私はいつ日本に帰ることができるのだろう。明日、サムに確認してみよう。別に悪いことをしに来たわけでもない。ジョシュアと出会わなければ。いや、なんでビッグサイトに行ったのだろう。なんで行けと指示された? 指示は誰にされたのだっけ。それはわからない。限界がきたので電気を消して目を閉じた。
またあの夢だ。ビルの屋上。彼が双子じゃなかったら、そのまま地面へダイブできていたのに。なんで、現れた?なんで助けた?結局、二人ともに捨てられた。
「なんで」
自分の声で目が覚めた。カーテンが揺れている。窓を開けっぱなしで寝てしまったらしい。暑くも寒くもない春だ。このままもう一寝入りしようと目を閉じ、ふうっと息を吐いた。ダメだ。夢の続きを見るわけにはいかない。誰も居ないとどうにも素の自分が現れる。不安になる。涙が止まらない。はあ。それでも朝が来ることに期待して、信じるしかない。
あいつ。本気で俺のことを忘れていたのか。俺といた時も、実は何もかもわかっていたのではないかと勘繰ったりもしたが。連日変な連中に襲われて、あげく脳に衝撃を受けたら、どんなにタフなメンタルの持ち主でもイカれてしまうのが普通だ。ヘタレはともかく、サムも案外ビビりなのだ。あれじゃ俺のつけ入る隙がありすぎじゃないか。おまけに本人も隙だらけときた。
二階とはいえ窓を開けて寝ている。日本はどれだけ平和な国なのだ。
どちらかと言えば、防犯のために俺はその二階の窓から侵入した。
「なんで」と声が聞こえて、心臓が一瞬止まりかけたが寝言のようだ。俺は気配を消して、ベッドに近づき、脇に隠れて様子をみた。泣いているのか?これも寝言なのか確かめようと彼女の顔に自分の顔を近づけた。外の明かりがわずかに彼女の涙を照らして光らせていた。我慢できずに手で触れようとしたが、思いとどまった。
その朝、目を開けると目の前にアニーがいて飛び起きた。なんでボスの家に?そう思った瞬間、この一週間ほどの記憶が全部戻った気がした。
「どうやってここに?」
いくら爆睡していても気配を感じることはできたはずなのに。私もすっかり衰えてしまった。
「窓、開いていたから。危ないだろ」
目をそらさない。
「あなた・・」
会って数時間も経たない人とベッドを共にしたという事実。いえ、私は騙されていたのだが。とにかく、私はヤクザを三人殺していて、彼らのボスとこんな風に一緒にいたらますます日本に帰れなくなるではないか。
「この状況はちょっと」
私は自分の動揺を隠しきれていないようだった。
アニーがシャワーを貸してくれというので、三日間世話になったお礼に使わせた。コーヒーを入れて、昨日結局買ってしまったパンで朝食にした。
「美味しいじゃん」
食べながら、今日は病院へ脳の検査とやらがあって、そこで問題なければ警察の調書作成に付き合って、なんとか彼らの目をそらしてなるべく早く出国の手続きをしたいのだと話した。
最悪、アニーの力でこの国から逃がしてくれないか、という含みを持たせて相談したのだ。彼は快く協力すると言ってくれたが、見返りを求めた。私は誰かと組む気はないと伝えた。
「人は一人では生きていけないものだけどな」
彼はまあいいや、と言った感じでとりあえず今日は暇だからお供させてもらいます。とにっこり笑って言うと、部下とやらがいつの間にか届けた着替えを身につけた。
サムが私を迎えにきた。にやにやしながら出迎えたアニーをみて、諦めたような顔をして言った。
「それで?」
「彼女が早く警察から解放されるように協力するだけだ」
私たちは病院へ向かった。一応、記憶が戻ったことは伝えた。腕の傷、頬の傷、頭部。特に問題なく、最後に医者との面談があった。アリスという女性が本当に医者なのかは怪しいものだが、アニーがずっと付き添ってくれていたので不安はなかった。その後ろにはサムもいる。本来は誰のことも信用してはいけないのに、緊張することもなく一日が終わりそうなのは彼らのおかげなのだろうか。だが油断は禁物だ。
そう思って気を引き締めた瞬間、気配を感じ取ることができた。廊下でガラスの割れる音がした。かなりの大音量だ。部屋にいた全員がドアをみた。なにこの茶番は。何かがぶつかってひっくり返ったような音だったが、明らかに生音ではなく、なんらかのメディアを介した音だった。それに気づいたのは私だけ? 気づいたらやばいのか。また疑われる?でもそんなのちょっと音に敏感な人ならわかると思うのだけど。判断しかねた。
一瞬、ビクッと驚いたふりをして、アニーにしがみついた。一体、ここの警察は何がしたいのだろう。私が何者なのかはっきりさせたいのだろうか。記憶が戻ったかどうかなんて彼らにはどうでも良い話だし、犯罪者とはいえイギリス人を三人も殺してしまった私を許せないとか? いや、細かく言えば五人か。キャサリンを、ジュリまでも死なせたのは私なのだから。
ふと、いつまでも冷静さを保っていたら逆効果なのかもしれない。と思った。またサムがアニーと私を引き離そうとしたので、私はヒステリックにわめき散らした。
「なんなの?私をここに留めておく正当な理由を教えて。まだ誰かが私を狙っているとでも?」
上等じゃないか。と、ここからは汚い日本語でその場にいた全員をののしってやった。あとから内容を聞いたら全員ドン引きするだろうか。
医者が注射器を受け取って私に近づいてきたので、いい加減にしろと言わんばかりにアニーを踏み台にして注射器を足蹴りにした。それからサムをひっかけて倒し、心の中で「ごめん」と言いながらドアを開けて廊下に出た。案の定、廊下には警官しかいなかった。きれいなものだ。惨状を想像していたアニーが驚いていた。彼がキョロキョロしてさっきの音が何だったのか見つけようとしているうちに、私は警官たちの間をすり抜けて廊下をひた走り、非常階段のドアを開けた。
下側に自分の靴を投げ捨て、上へ向かった。大半の間抜けはそれで下へ追いかけるだろう。すぐ上の階でまた廊下に出た私は、そっと病室へ入り、窓を開けて外へ出た。屋上まであと三階か。階段を上に追いかけた連中も、今頃は見失ったと思って下へ降りているはずだ。ゆっくりと壁をよじ登り、屋上の縁に上がった。高いフェンスがあるのでもたれかかって景色をみた。奈落の底とフェンスの間に収まって、気分が良かった。はあ。これでいつもでこの世からおさらばできる。今が一番幸せな気分だ。
「おい」
ん?やけに早いな。アニーがフェンスの向こう側にいた。
「一人?」
「おまえ。俺がまいてやったようなもんだぜ」
「ありがとう。すごいね」
「お前が弱いのは昨日の夜でわかってる」
あそ。
「で?」
「頼むから足をぶらつかせるのをやめてくれ」
「私、もとから頭イカれてんのよ」
「俺は面白い女が好きなんだよ」
「別に日本に帰りたいわけじゃないし」
「それはありがたい」
「幸せになりたいわけでもない」
「おまえは何がしたいんだ」
「今一番したいのはここから落ちたら死ねるか試したい」
「俺の予想では半身不随程度だな」
「このやりとり、続ける気?」
「もちろん」
「私は誰も信じないし愛さない」
「俺も基本的には自分しか信用してないね」
「結局、ジョシュアもそうだしサムも裏切った」
「あいつらは最低だな。俺も嫌いだ」
「そもそも登場人物が全員男って」
「男に興味ないのか」
「そう、男は嫌い。女はもっと嫌い」
「だからあなたも私を構うのやめてくれない?」
「それは出来ないな」
はあ。
どやどやとサムが警官たちを引き連れて屋上へやってきた。
「ユキ。君を日本へ帰すことが決まったよ。だから」
だからなんなのだ。この茶番は。あほくさ。
「アニー。私がもし死ななかったら。私あなたの子供を産んでもいいよ」
「え?」
誰かがフェンスを越えてこちらへ来ようと足をかけた瞬間、私は奈落の底へ飛んだ。文字通り地獄へ行けますように。それで許してほしい。何もかも。
何て女だ。いつ俺がお前を裏切ったというのだ。お前は命の恩人だというのに。それだけじゃない。警察をなめるな。彼女がマットの上に落ちたのは確認したが、この高さだ。ある程度の衝撃は免れないだろう。急いで下へ降りた。ヤクザが今度こそあいつは俺が引き受けると言ってその目を輝かせていたが、もう勝手にしてくれ。
「費用はお前が払えよ」
「もちろんだ。その代わりお前ら警察はもう関わるな」
「それで彼女が平和に生きられるなら」
階段を降りてそのまま病院へ向かった。アニーが時間を稼いでいる間に、救助マットを手配した。彼女がそれに気づいていたかは不明だ。どちらにしても本当に飛び降りるなんて。警察が何者か暴きたい気持ちもわかるだろう。俺はどうでもいいが。どうなるのが彼女にとって幸せなことなのか、俺にはもうわからない。彼女を愛しているのは事実だ。命の恩人なのだから。ヤクザといた方が生き生きと過ごせるのかもしれない。奴だって根っからの悪人ではない。死んだ三人の部下についても無鉄砲すぎて切りたいと思っていたはずだ。正直、彼女に感謝しているのかもしれない。もう終わりだ。
だが警察の手を離れたら、彼女は結婚でもしない限り日本へ帰されることになるだろう。日本に彼女を支えてくれる人はいるのだろうか。あいつはどうするつもりなのか。
飛び降りた瞬間、ざまあみろと思った。けど下に何かあるのを見て嫌な予感がした。それは的中し、私は無傷で生きていた。もう笑うしかない。降参した。バカなのは私だ。誰に謝ったらいい?尊?だったら地獄へ落として。落ちてから病院に運ばれるまで、アニーたちが来るまで、私の意識はしっかりしていた。彼らにそう見えていたかは不明だが。
「約束は守ってもらおう」
アニーが嬉しそうに言ってきた。でも残念だけど子供はもういない。さっき医者たちが話していた。妊娠した事実はあったが衝撃で流れた。これで流産したのは二度目だ。と言っても着床したばかりだろうから妊娠したとも言い難いが。こっちへ来てからジョシュアともやってるし、実はどっちの子かもわからなかったし、私が子供なんて育てる義務はない。
「あまり私を甘やかさない方が良いと思うけど」
「病院代はきっちり働いてもらうから安心しろ」
そういえば、ジョシュアには何かしてあげたいと思っていたけど、助けが必要ない人にはどうすればいいのかわからない。自分が守られるだけなんて。
「余計なプライドは捨てたほうが楽になれる」
結局、アニーは出来た男だった。もう一度、人を信じてもいいのかもしれない。これでもしまた裏切られたとしても、そうなる前に彼のために死んでしまえばよいのだ。
彼に手を伸ばして、首に触った。懐かしい思いが流れ込んできた。
「おかえりなさい」
何人かが出迎えてくれた。ケンとジェイも嬉しそうに飛びついてきてくれた。遊んでくれと吠えたててうるさいので庭へ行って一緒に走り回って遊んだ。自分が元気になった気がした。全身打撲のような衝撃は受けたし、受け身もまったく取れてなかったが、痛みはない。犬たちが興奮しすぎてこけまくっているのでつい笑ってしまった。動物はかわいい。悪意がまったくない。一番信用できる存在かもしれない。
「犬に嫉妬しちゃいけませんよボス」
「ふん」
いきなり放置されてご機嫌斜めになったボスはたまった仕事を先に片付けようと二階へ上がった。窓から彼女みていると、どの状態が本当の彼女なのかわからない。だが無事に俺の元へ帰ってきた。今はそれで良しとしよう。夕飯までにこれを始末する。ショッピングモールの店舗の収支を急いでチェックした。
「あのショッピングモールあなたのなの?」
はあ。ヤクザといっても本物のヤクザなわけがないか。カジノクラブの経営がメインらしい。ここにいる皆は本当に部下って。彼のお世話も含まれているらしい。もともと女性が一人もいないのは何故だろう。嫌いなのかゲイなのか。
「だから、俺はまともな部類の人間なんだ」
そう言ってアニーはここでの婚姻手続きについて説明を始めた。
「え、何の話?」
「約束は守ってもらうと言ったはずだ」
「結婚するとは言ってない」
「俺の子供を産むということは、そういうことだろう」
私がプロポーズしたことになっているらしい。
「あなたの気が済むまでこの国にいるためには、ってことなら」
「それでいい」
「あ、はい」
そういえば、さっきボブが心配していた。ボスの気が緩んでいる今は一番危険かもしれない。ボスを狙っている輩はたくさんいるのだと。私が来る前はボディーガードを雇っていた。彼自身、強いし基本的には大丈夫ではあるのだか、と。
「私がお守りしますよ。やることないし」
私が言うとボブは「それは頼もしいけど、ボスのプライドが傷ついちゃうからやめてくれ」と困惑しながら返してきた。まあ大丈夫だとは思うけど、こないだのこともあるしドサクサに紛れて何かしかけてくるかもしれない。って誰が?ヤクザの敵はヤクザ?
珍しくテレビをみていたら、ジョシュアが復帰したと報じられていた。久しぶりにその歌声を聴いた。良かった。キラキラしている。所詮、住む世界が違ったのだ。逆に私が彼を巻き込んでしまった。彼と出会ってからまだ三カ月ほどしか経っていないのに本当にいろんなことがあって、懐かしくてテレビを直視していたら、アニーにプチっと切られてしまった。
「ちょっと」
まさか嫉妬とかじゃないでしょうね。でも観続けていたら涙が溢れていたかもしれない。とりあえずこの愛情深い人を大事にしようと思った。私が裏切ることはないのだ。私は単純なのだ。
「ところで、明日は?」
「明日はモールと夜はカジノをハシゴするから帰りは遅いと思う」
「じゃあ私もどっか観光でもしようかな」
おまえはダメだ、と言いかけたアニーが私が何か言おうとするのを遮って言った。
「明日よりも今夜のことを考えよう」
そうは言ったものの、さすがに流産した直後の女を抱くことはできないらしい。
日数的にはたいして久しぶりでもないのだが、自分のベッドでぐっすり眠ることができた。悪夢はアニーがどこかへ追い払ってくれたようだった。いや、自分が眠っていないだけか。頭の中で記憶をたどっていた。
十二月ジョシュアと出会う。コミケでは何かが起きるはずだったが仕事を放棄してしまった。
三月。ジョシュアに頼まれてイギリスへ。空港で少し嫌な予感はしていた。
一日目。ジョシュアと再会してホテルへ戻り、午後に外に出たがそこでジョシュアの元カノに刺される。病院からホテルへ戻って終わり。
二日目。ジョシュアはライブ。私は外出禁止だったがサムに買い物に出てもらい、餃子を作る。警官二名とバンドのメンバーとで夕食。餃子食べたいな。
三日目。ホテル。日本のクライアントからの仕事をする。ジョシュアは家を買っていた。
四日目。彼の家へ移動。ホテルのロビーで銃撃されたが大丈夫だった。少し仕事をして、ジョギングに出る。サムがついてきた。公園でサムが襲われる。三人殺すが頭を打って記憶喪失。病院で三人のボスに誘拐される。誘拐って。
五日目。アニーの家で朦朧としてた?
六日目。パソコンであらかた調べる。
七日目。ショッピングモールの展望台の屋根に上がって、三日間の記憶がまた飛ぶ。ジョシュアのところへ戻される。
八日目はなんだっけ。八日目にジョシュアと別れた。それから。アニーが現れて記憶戻って。で。なんで病院の屋上から飛び降りたんだっけ。アニーと結婚したのか?子供、流れた。誰の。
直近の記憶が薄れている気がした。悪夢ではないが、いろんな喪失感が襲ってきた。でもアニーの寝息がすごく平和で癒された。
「なんだよ」
そう彼がそう言って一瞬、目が合ったがお互いすぐに目を閉じた。この気持ちは何だろう。
朝になってまるで新婚夫婦のような扱いを受け、新婚旅行はどこに行くかで皆が盛り上がっている中で、当の夫婦もどきは黙々と食事をした。私が一人で観光するか、彼の仕事にくっついていくか。家で大人しくしている選択肢はない。今日、調べなければならない案件はもうないし、なまった体を元に戻したい。動かないと。
結局、モールに行くことにした。アニーは満足したのか、急にその仕事について話し始めた。私は一応、聞いている振りはしていたものの、この暮らし、まだ始まったばかりの自分の立ち位置がわからないままだった。いずれ、近い将来、日本に帰って本当の自分に戻って生きているのだろうか。日本人だけど、特に愛国心もない私が、最終的に望んでいることすら少し前までは「死」だったのに。
車に乗り込んで現地まで向かう。
あのモールの敷地内に新しくカジノを作るらしい。それだけ広いのだろう、敷地の全貌はまだ見ていなかった。その建設中の建物の視察、それから空港近くにあるカジノへ行くという予定だ。カジノと言えば如何様というインチキ商売のイメージしかないし、「ギャングのお仕事じゃん」と言いかけてやめた。本人が真っ当だと言うのだから信じることにする。ついでに展望台も屋根に上がれないようにガラス張りに変えるようだ。
「でもそんなに高いわけでもないのに。」
風にあたるために高所へ行く人もいるだろう。なにも景色だけじゃないのだ。
「落ちてもしれてるでしょ」
私が一人で話している。彼はもう仕事モードらしい。おかげでそっと離れていっても大丈夫そうだ。車を降りてから、微妙に嫌な感じがしていた。この国にいる限り、平穏にいられる瞬間なんてないのだと自分に言い聞かせた。私が離れた方が良いのか、彼にくっついて守った方が良いのか。気配の原因を探りたい。私の興味が一気に無形のそれに向いたことに誰も気づいていないようだった。
工事現場の近くまで来た。ツインタワー風の建物だった。まだ今日の作業は始まっていないので作業員もいないようだった。ぼそっとボブに「何かあってもアニーから離れないでね」と言っておいた。それはこっちのセリフだと言い返されたが聞き流した。誰かがヘルメットを準備するまで中には入れないらしい。
上を見あげていると、何かが光った。思わずアニーの腕をつかんでその場を離れようとしたが逆に覆いかぶさられてしまった。パラパラと落ちてきたのは大量のレンチだった。幸い誰にも当たらなかった。何人かが建物に入ろうとしたが、現場長のような人が制止しいったんモールへ戻ろうと言うことになった。基本的にまだ中には入ることはできないし、昨日誰かがしまい忘れた工具が落ちたのかもしれない。皆がぞろぞろとタワーを背に歩き始めたのをみて、私はそっと隣の棟に走った。誰かいたような気がした。
「あ、こら」
とアニーとボブが追いかけてきたが、隣の棟に入った私は瞬時に行き先を変えた相手に倣ってさっきの棟へと飛び移った。飛べるくらいの距離に同じような建物を2棟建てる意味があるのか?余計なことを考えてしまった。アニーたちが私を捜している間に相手の正体を知らなければ。鉄骨の間をぬって上へあがっていくと、気配が無くなってしまった。まさか途中で飛び降りた?
耳を澄ませた瞬間、ボーガンの矢が飛んできた。こともあろうにまた右腕をかすめた。目の前に誰かが立っていた。
「誰」
聞いても返事はない。そいつは手に持っていたボーガンを脇に置いて何故か素手で襲いかかってきた。
暗いしマスクをつけているので顔が全く見えない。攻撃はかわせる程度だが私の攻撃も軽くかわされる。何?空手?なんとかしてダメージを与えたい。傷の一つも残せたら手掛かりになるはずだ。だが本気で蹴りを入れても受け身を取られる。それどころか私の手首ばかり狙ってくる。日本人?まさか。マスクからはみ出た髪の色は金だ。
私も真似してみたが、これ以上やってたらこっちの右手首が先に折れそうだった。
「おい」
アニーの声がした。その瞬間、建物から飛び降りたやつはどこかへ行ってしまった。
「危ないよ」
私が言うと、さらに速度を上げて迫って来た。
「なにやってんだよ」
怒っている。まあ、でしょうね。
私は病院へ連れていかれそうになったが、あそこには行きたくないとわがままを言ってモールに医者を呼んでもらった。別に怪我もしていないのだから来てもらうのは申し訳なかったが、久しぶりにあの先生に会ってみたくなった。何故だろう。
しばらくして先生が診てくれたが、腕の傷はかすり傷で、手首は少し腫れていたが大丈夫だろうと湿布だけしてくれた。
その間、アニーは仕事を終わらせ、営業中のカジノへ向かうからお前は帰れと言ってきた。悩んだが調べ事ができたので快諾すると、少し意外そうな顔をした。あれ、行った方が良かったのかな。と思ったがとりあえず私は帰ることにした。彼が警察に連絡するか迷っていたので、大したことじゃないから別にいいんじゃない?しなくて、と言っておいた。私はボブと一緒に家に戻った。
「ボスについていなくていいの?」
私が聞くと、ボブは言った。
「カジノに、俺なんかより頼りになるやつがいるんで大丈夫ですよ」
部屋に戻って早速パソコンでさっきの覆面を捜したが、モールの監視カメラには覆面姿でしか映っていなかった。体つきは男だと思うが、わからない。でもあの目はどこかで見たことがあった。さすがにAIでもない限り目だけで見極めることは無理だ。警官の中にいた?この国で自分に関わっていそうな人間は限られている。そう思って気合を入れようとしていると、「さっきの医者が来たようです」とドアの向こうでボブが言った。
「湿布を渡しておこうと思って」
「え、わざわざすみません」
玄関で受け取ると、彼が振り返って去るのを待っていたが、私を見たまま動かない。
「あ、中でお茶でも?」
そう言うしかなかった。応接間に案内して、ボブにお茶を入れに行ってもらった。そういえば怪我する度にこの先生はわざわざホテルまで来てくれたりして、本当に親切な人だ。アニーがそれなりのお礼をしているからだろうけど。
「えっと、ロビン先生でしたっけ、いつも本当にすみません」
「いえ。それより腕の傷はこれで三回目ですね。まあ、あとの二回はたいしたことないですが」
「そうですね。偶然にもほどがありますよね」
笑いながら言ったが先生は続けた。
「頬の方はもう完全にないですね、頭の方は大丈夫です?記憶が戻ったりは」
「記憶はほとんど戻りました」
「そうですか。でも全てではなさそうですね」
何故そんな言い方なのだろう。先生もきれいな金髪の持ち主だ。おもむろにその髪をかき上げる手をみて一瞬ドキッとした。その手首が少し赤い。
「やっと気づいてくれたみたいだね」
そう言われてもピンとこない。ただ心拍数だけは速くなっていく。すかさず先生は私の手を取って「脈が乱れている」と言った。先生の目を初めてしっかり見た気がした。変な汗が出る。
「今から俺と一緒にきてくれ」
「は?」
そこへボブがお茶を持って入ってきた。しかし先生は立ち上がって帰るそぶりを見せた。
「ああ、急用ができたので失礼するよ」
そういって彼は私の肩を抱いて部屋から出た。
「え、ユキさん?」
ボブが戸惑っていたが私は「すぐ戻るから」と言い残して外へ出た。玄関を出るとタイミングよくサムが来ていた。アニーが連絡したのだろう。
「大丈夫なのか?」
さすがに先生と私を引き離そうとはしない。私はどうするのがベストか考えていた。このロビンという人の正体を知るためにはついていくのもありだ。
「彼女の体調が良くないようなのでやはり病院に来てもらいます」
私は「さあ」という態度で先生の手をどけようとしたが、意外と力強いその手は私を離さなかった。
「家から出すなとアニーに言われたんでな」
サムがそう言って、私の手を取ってくれたので正直ほっとした。
「そうですか、残念です」
そう言って先生は私を離し、車の方に去っていった。車のナンバーをすかさず覚えてからサムと一緒に家の中へ戻った。
「ありがとう。実はやばかったのよね」
ものすごく緊張していたせいか、玄関で座り込んでしまった。
彼が飲まなかった代わりにボブの入れたお茶をがぶ飲みしながらサムが言った。
「あの医者については俺も調べてみるよ。確かたまたま最初に病院に君を運んだ時に当直だったから、それだけだと思うけど」
とてもそうは思えなかった。もしロビンが今日のマスクだったとしたら。ものすごい能力をもった犯罪者だったら、さっきのボーガンもわざと右腕を狙ったのかもしれない。殺す気がなくて、些細な怪我を負わせて、その度に私に接触する。
「何か怪しかったとしても、目的がわからないとね」
そう、まさかあの人までがジョシュアと付き合うことに悪意があったとか、あり得ない。もっと根本的なところで、何か忘れている気がする。
「やっと気づいてくれたって、意味がわからない」
私がぼそっと言うとサムが反応した。
「何?奴は君と面識があったとでも?」
「少なくてもこっちに着いた日から怪我する度に会っているのは確かだろうけど」
思い出せない。今日の犯人が自分だと気づかれた、ってことだろうか。
サムには今日のことを話しておいた。先生の手首が少なからずダメージを受けていたこと、他には一切、証拠となるような傷さえつけられなかったこと。つまりそれくらい強かったということ。先生の目の色と髪の色が本物かどうかも確認してほしいと伝えた。でも、事件でもないのに調べてくれるのだろうか。結局のところ、サムが襲われた事件以外は、被害者は私だし、正直どうでもいい話だ。もうすでに個人的な出来事にほかならない。私も、気になるだけで、だからといって警察の力を借りようなんてどうかしている。もう忘れよう。
話したことを少し後悔した。明日、サムにも伝えよう。結局は工事現場から何かが落ちてきた程度のことだ。
夕食の時、アニーもさほど気にしていない様子だったが、先生が家に来たことをうっかりしてしまった後は、なにやら心穏やかではなくなっているようだった。私を連れ出そうとしたことは言わなかった。
「わざわざ湿布を?」
こいつに関わるやつはみんなこいつに惚れるという法則でもあるのか?こんな可愛げのない女。いや、俺の妻だ。悪いが誰の入る余地もない。それにしても今日は危なかった。気にしていないふりはしてみたが、あれでこいつがまた怪我でもしたら結局、俺といても危険ということになってしまう。やはりまだ何者かがこいつを狙っているのだろうか。まさか愛情だけでここまで狙われたりすることがあるのだろうか。他に理由があるのだろうか、せっかく警察の手を離れたというのにまたサムに協力させることになるとは。まったく仕事が手につかない。
「明日は家でおとなしくしてる」
彼女が言ったので落ち着きを取り戻すことができた。何をやっているんだ俺は。
当たり前だ。この家にいた方が安全だ。この国に知り合いなんていないのだから今度は誰が来ても家には入れるなとボブにも言っておこう。医者でもだ。
「ああ」
と言ってから、明日はモール支配人の娘の結婚パーティーだと思い出した。しまった。こいつにも出席してほしいと言ってたか。俺の妻として公にする良い機会にもなる。だが、不安がぬぐい切れない。
「明日は結婚式に呼ばれてる」
「へぇ。楽しそう。誰の?」
「支配人の娘だ」
「そりゃ出席しなきゃね」
結婚式なんて久しぶり。まあ私は呼ばれてないから行けないのでしょうけど。外国の結婚式って興味あるなあ。まあ着ていく服もないし。関心が無い体でパンを食べた。
「パン、好きだよな」
「バレた?日本人だけど米よりはパンが好きかな」
「娘の結婚相手はあそこのパン屋だよ」
「え、そうなの?あなた、不味いって言ってなかった?」
「そんなこと言ったっけ」
「ひどい経営者だよね」
「明日は彼が焼いたパンも出るだろうな」
なにそれ。私に「行きたい」って言わせたいの?明日は調べごとがあるしなぁ。
「ふーん。残念。」
ごちそうさま、と言って席を立ったらアニーが言った。
「お前にも来てほしいと言われてるんだけど」
「私、着ていくドレスとかもないし、留守番の方がいいかな」
「ドレスは用意するよ」
「え、外出してもいいの?」
「トイレも俺と一緒に行くと約束してくれ」
わーい。と言ってとりあえず彼に抱きついておいた。知らない人の結婚式だけど、上司の奥さんなら普通に同伴するのかな。
夜になって体中が痛くなってきた。もしあいつがロビンという医者だったとしたら、間違いなく彼と私は過去に面識があるのだろう。思い出せないのは何故だろう。外見をごっそり変えていたとしても人間が出すオーラでなんとなくわかるようなものだけど。やっぱりサムの意見を今度聞いてみよう。私の思い過ぎかもしれないし。アニーがベッドに入ってきたのにも気づかずにいつの間にか眠ってしまった。
翌朝、起きると節々の痛みも手首の腫れも引いていた。
結婚式は午後からという。結婚式というかパーティーみたいなものなのかな。社長とはいえ親しいわけでもなさそうだし。夜には近しい人でいわゆる二次会があるけどそれには出ない。会場はモールの傍にあるこじんまりしたそういうイベント専用の場所らしい。午前中はアニーもいたので何も出来ず、犬二匹と遊んで終わった。彼が頼んでくれたドレスが届いた。なんだかいつもギリギリだ。衣服に興味がなくて良かった。男の好みがよくわからないけど、明らかに動きにくそうなものだった。でもまあ、着てみると普通に似合っている。
軽くランチをして、車で現地に向かった。アニーは時間にルーズなのか。そうなると私とは合わないかもしれない。まだ私は「お客様」気分だから一応遠慮して時間的なことに文句は言わないようにしているつもりだ。パーティーはすでに始まっていた。あとから入っていくことほど、嫌なものはない。目立ちたい奴がそうすればいい。
「あれ、あなたは」
そう言って声をかけてきたのは新郎の父親だった。
「あ、どうも」
「あの時お買い上げのパン、お届けしますよ」
公園でパンを売っていたおじさんだ。まさか今日再会するとは。
「知り合い?」
アニーに言われて、説明しようとしたが、おじさんが遮った。
「まあ今度ご自宅までお届けしますよ」
そう言って飲み物をくれた。立食か、と結構な人がいて私はすでに疲れてきた。人ごみが苦手なのは昔から変わらない。俺から離れるなと繰り返すアニーにぴったり寄り添っていると、まるで大人しい自己主張しない奥さんって感じだ。
無事に新郎新婦にも挨拶をすませ、私もやっと美味しい料理にたどりついた。そろそろ帰っていいのだろうか。
「ねぇ、私だけ帰ろうかな」
「俺も帰りたい」
そう言いつつも、社長としてはさっさと帰るわけにはいかないらしく、寄ってくる人が後を絶たない。いい加減、本当に疲れたのでトイレに行ってくる、と言って彼の返事を待たずに会場を出た。はあ。
結局、一人になっているじゃない。少し外で酔いを醒まそうと人気のないテラスを見つけそちらへ向かった。
「どこに行くんだ」
腕を掴まれた瞬間、攻撃態勢になったがあっさり身動きがとれなくなってしまった。こいつは。グラス1杯の酒を飲んだくらいで、嗅覚が鈍るなんてショックだった。
ロビンだ。髪の毛が黒い。今日染めたかのような臭いだ。
「君が気にしているようだったから」
耳元でささやかれたのは日本語だった。
「その目の色も偽物ですか」
「あ、さすがにコンタクトはこれしかないんだ」
そのまま、誰も居ない部屋に招待されてしまった。
「念のため確認だけど、結婚式とは無関係?」
「今日君がここに来ると思って待ってただけだ」
「なんで」
「うーん。まだ思い出せないんだ」
いつの記憶が抜けているのだろう。こいつの方が強いのはわかってる。閉められたドアの方を見ながら彼を観察した。
「ちなみに医師免許は持ってる?」
「もちろん」
「どうやったら外国の病院にもぐりこめるの」
「そこはどうでもいい」
「目的は」
「その前に、君が俺を思い出してくれないと」
無理でしょ。わざと記憶を捨てたわけでもないし。アニー。そろそろ私を捜してくれてる?まさかここにいるとは思わないか。ああもう。こいつより私が弱いとは限らない。覚悟を決めて、ロビンの腕を振り払ってそのまま足蹴りの体制に入った。よけられる。これじゃ昨日と同じで私が負けるのが目に見えている。ふっと息をついたとき、ロビンが攻撃してきた。よけたつもりがソファに倒れこんでしまった。何かがおかしい。
「君は自分が口にするものにもう少し気をつけた方がいい」
何?
ものすごい睡魔に襲われた。
少々わざとらしかったかもしれないが、とりあえずユキを手に入れた。しかし、何度も接触したのに俺のことをただの医者としか見ていなかったとはショックだった。顔そのものを変えてしまったのを後悔した。整形したのは俺自身が尊のことを思い出したくなかったからだ。
同じ顔をしているのに、何故あいつばかり愛されるのか。ただの偽善者じゃないか。俺は双子の兄である尊のことが大嫌いだった。いや、本当は相当に愛していたのかもしれない。尊に女が出来た時はいつも女の方に嫉妬したものだ。ユキが現れた時の感覚だけが違っていた。初めて尊が邪魔だと思った。そんなそぶりは一切みせずに、淡々と待っていた。三年も。
あいつが火事、というか爆発に巻き込まれて死んだときはやっと俺の出番だと喜んだつもりだが、俺の気持ちを知っていたあいつが俺のために死んだのだとわかったとき、正直ぞっとした。自分の体のパーツが一つ一つ崩れ落ちていく感覚だった。あの日、本当は俺があいつを助け出すはずだったがわざと行かなかった。あいつはそれを知っていたのに自分の死を選んだ。もう感情が整理できない状況だった。あの日、完全に思考が停止していたユキを説得し、二人で尊の仇を討つと誓ったのに。ユキは俺から逃げた。その時、ほとんどの記憶を捨てていったようだった。
それからしばらくしてフリーで仕事を受けるようになったユキを見守るように、俺は依頼人に扮して顔も変えたが姿は見せずに一緒に仕事をしてきた。記憶を取り戻したときすぐに行動に移せるように準備していたのに。ビッグサイトでいきなり仕事を放棄してあの外人のためにここまで来るなんて。俺は焦っていたのかもしれない。
だがここまできた。尊を殺したやつを見つけ出してからも復讐せずにいたのだ。二人でやらないと復讐にならない。まだ時間が必要だ。カバンから採血用の注射器を取り出した。この場所が見つかるのも時間の問題だろう。長居は出来ない。
ユキを抱えて地下の駐車場へ向かう途中、結婚パーティとやらのスタッフの一人に出くわした。
その女性ははっと息を飲んで俺を凝視しながら後ずさりした。
「私は医者です。彼女が怪我をしたので病院へ向かいます」
「え」
驚いたように今度は私に近づきユキをみる。
「今日は結婚式でしょう。救急車を呼ぶまでもないので騒がないでいいですよ」
そう言って何事もなく車の方へ向かうふりをして女性の視界から消えた。彼女はしばらく突っ立っていたようだが、その後バタバタと走って去っていった。
その隙に俺は自分の車にユキを乗せて会場を後にした。
アニーはまた苛立っていた。あいつがトイレから戻ってこないことに気づいたのは三十分以上経ってからだった。俺としたことが油断した。ボブに捜させようと声をかけると、彼女は先に帰ると言ってトイレに向かったようだった。
「だから帰ったんじゃないですかね。結構たいくつしていたようですよ。誰かさんが結局ほったらかしにしたせいですかね」
「俺に言わずに帰るわけがないだろう」
まったく。どこに行ったのだ。他の連中も集めて捜すように命じて、電話をかけた。
「ハロー」
「おい、お前じゃないよな」
サムが応答すると同時に言ったので動揺が出てしまったかもしれない。
「何かあったのか」
「居なくなった」
「今どこだ」
また警察の世話になるのは気が引けたが、サムなら大丈夫だろう。とりあえず屋上に行ってみるか。また縁にぼけっと座っているかもしれない。そう思って上に向かうエレベータに乗り込んだ。階数ボタンを押そうと手を伸ばした時、わずかに血痕らしきものが付着していることに気づいた。なんだこれは。汚れか?じっと見ていると床にもそれらしきものがある。嫌な予感がした。
屋上には誰もいなかった。血痕もない。外れだ。急いで階段で下まで戻ったところでボブが走ってやってきた。
「ここのスタッフが、地下で怪しい人を見たそうです」
事務室に行くと女性スタッフが興奮して話し始めた。医者と名乗る男が血まみれの女性を抱えて病院に行くところだったという。血まみれだと?最悪だ。
「彼女はぐったりしていて意識はなかったようです」
「一体、何があったんだ」
パーティーが台無しになるといけないので静かに連れて行きますだと? 顔は血まみれで、腕からも出血していたようだった。どこを怪我していたのかはわからない。その医者が冷静だったのでたいした怪我ではないのかもしれないと思ったそうだ。
病院などに行くはずがない。サムにあいつの住居の場所を聞かなければ。スマホを取り出そうとしたらサムが到着した。同時に別のスタッフが現場の部屋を見つけた様だった。その部屋へ向かう途中でサムが仲間に電話して奴の家に走らせた。病院が把握している住所だから居ないと思うが、と言いながらエレベータ内の血痕を見つめた。
現場は医者が予約していた部屋だった。明らかに争った痕跡があり、血痕も十分すぎるほど散らばっていた。ソファにしみ込んだ大きな血痕を見ると本当に奴が大丈夫だと言うほど些細な怪我ではないだろうことはわかった。俺は頭を抱えた。サムに言わせると殺すことは絶対になさそうだが、本当に生きているのかもこれじゃ怪しい。殺す気がなくたって死んでしまうことは多々ある。
数時間後、彼女は行方不明なうえに血痕も彼女のものと判明した。どこの病院にもいない。奴が医者とはいえ、彼女が無事という保証はない。厄介なのはこれがただの誘拐とかではないということだ。俺か警察に連絡して身代金でも要求してくれる方がまだマシだった。また警察の関与しにくい案件だ。捜索願を出して警察に捜してもらうという形だけの手続きをして、あとは自分で何とかしなければならない。夫である俺が捜し出す。
「あの医者は経歴もまとも過ぎて逆に怪しいんだ」
サムが言った。イギリス人のあいつとイギリスに来たばかりのあいつのどこに接点があるというのだろう。最初に腕の治療をしたときに惚れたのか?それだけでここまでのことをするのか?そう考えた時、自分もそうだったことに気づいた。
「ははは」
思わず笑うとサムが軽蔑するような目で俺を見た。
「あの医者と俺は同じかもな」
笑いが止まらない。そうなると彼女が生きていると確信出来てほっとした。
「お前は自制心がある優秀な警官だから、わからんだろうな」
少しひっかかるのは、奴があの病院に勤務することになった初日に二人は出会っているということだった。彼女自身が認識していないのだったらそこは気にするほどでもないのだが。
「そういえば、彼女に頼まれていたことがあった」
サムが調べたのは、奴の髪の毛と目の色だった。金髪に見える髪は本当は黒髪。目の色は同僚に言わせればブルーっぽく見えるらしいが、カラーコンタクトをつけている可能性も捨てきれない。となると白人ではない?彼女はやつのことを日本人だと思っているのだろうか。そうなら面識があるということか。しかし奴の経歴は正真正銘のイギリス人。偽装なのだろうか。そんなことが可能ならどれだけ抜け漏れがあるのだろう。
もしかしたらすでに日本行きの飛行機に乗っているかもしれない。いや、あんな怪我をしていたら目立つに決まっている。意識の無い人間を乗せることは難しいはずだ。たとえ医者だろうと。それに自力で歩けたとしても彼女は抵抗するはずだ。抵抗する?彼女は日本に帰りたがっていた。まさか全部織り込み済みの行動なのだろうか。二人が仲間だとしたら。
「俺はどうしたらいいんだ」
「とにかく、一応これは事件性があるものとして捜索はするよ」
サムはそう言って仕事に戻っていった。家に戻るべきか決めかねていると新郎の父親が何か言いたげに近寄ってきた。
「奥さんにパンを届けたいから明日行ってもいいかね」
このオヤジは何も知らないらしい。返答に困っていると今度はおかしなことを言い出した。
「彼女は超能力でも持ってるのかね」
「は」
パン屋のオヤジは公園で彼女が刺された現場にいたわけだが、彼女は買うつもりのないパンを買って、金だけ払ってパンは受け取らずにまっすぐ刺されにいったように見えたらしい。襲われるのがわかっていたかのようだった。後ろから襲われたのなら背中を刺されそうなものだが、まるで見えていたかのようによけて腕をかすめた。ように見えた。足蹴りしたときも相手の動きが完全に止まっていた。ように見えた。
まあ確かに、うちの気性の荒い犬どもをいとも簡単に手なずけたことも不思議ではあったが。そういうミステリアスなところも惚れた理由にはなるだろう。要はこのオヤジも彼女には好意的というわけだ。ヘタレの信者以外のたいていの人間には好かれるだろうよ。そう考えるとますます彼女の無事が想像できた。俺はいったん帰ることにした。
またあの夢だ。
ビルの屋上で尊が燃えているであろう建物を見ていた。誰かが裏切った?何をしにあそこへ行ったのだろう。そして何故私だけが離れたビルの屋上に来たのか。私もあそこへ行くはずだったのに。彼がここにいるように指示した。彼は私の上司であり仲間だ。恋人でもある。あの仕事は何故かケイが引き受けてきた。ケイ?彼はどこにいるのだろう。一緒にいるのだろうか。尊が一人で行くなんてありえない。一人が盗む間にもう一人が守るのがこの仕事のやり方だ。盗む?犯罪の片棒を担いでいた?悪いことをしている認識はなかったはずだ。悪人からデータを盗んで依頼者に渡すのが仕事だ。訴えられることはまずない。誰かが私たちを始末しようとした?確か相手も死んだはずだ。何かが爆発してそこにいた人間は跡形もなく消えた。ケイが生きているとしたら。まさかケイが。そう思ってケイと過ごした部屋から逃げてきた。一緒にいたら殺してしまうかもしれない。なんで私じゃなく尊を殺したのだろう。いや私を殺すつもりだったが誤算だった?
「なんで」
また声にだして目が覚めた。目の前にケイがいる。まだ夢の中なのか。頭がぼんやりする。
「せっかくあなたのこと、忘れていたのに」
なんで思い出させた?
「私を愛してるとか、気持ち悪いこと、言わないでよ」
妄想が口に出た。
「おまえ」
ケイが片手で私の口を押さえつけた。もう声がでない。
「俺はやってない」
医者っぽく落ち着いた声で話す。
「だがあいつが細工したのは知ってた。知ってて放置した」
つまり、あんたが尊を殺したも同然。記憶が蘇ってきた。
「おまえを手に入れたかっただけだ。おまえとおまえのその能力を」
「だがあいつは助かろうと思えばあの爆発を回避できたのに」
「あいつは自滅したようなものだ」
「俺のために」
「だから俺は、後悔してるんだ」
それを言いたくてわざわざイギリスまで?
「俺と一緒にまた仕事しないか」
だが断る。
ケイの手が離れた。
「私はこのままアニーの妻で良いと思ってる」
まだ私を受け入れてくれるかは不明だけど。
「ダメだ。あいつに復讐するのにおまえの力が必要だ」
「復讐?いまさらそんな馬鹿なことするわけないでしょ」
「馬鹿なこと?」
「あなたはバレないうちに日本へ帰って」
「アニーは殺す」
「関係ないでしょう」
「おまえがあの時、復讐すると言ったから」
「誘ってくれたわけだ」
もうそんなこと忘れていたのに。尊の顔も、あの時の感情も全部。正直、どうでもいい。ケイがアニーをやろうが、尊を殺したやつをやろうが、私をやろうが。ああ、でもケイはずっと耐えてきたのだろう。忘れることもできずに。それは私のせいなのだ。あの悪党がケイを苦しめているというなら私が殺すしかないのかもしれない。
でも今はアニーが心配してる。何とかして帰らないと。ケイはどうするつもりなのだろう。私は彼を今更に犯罪者にすることなんて出来ない。
「確か古本屋のオーナーだったよね」
「そんなの単なる場所に過ぎないよ」
一度だけ、依頼者だという男のところへケイと行ったことがあった。古本屋のわりには置かれている本は新しいものばかりで違和感があったのを思い出した。
いい人そうにみえたが、裏の顔は人も殺せるというわけか。しかも自分の手は汚さない。そうやってその人をなんとか悪人に仕立て上げようと記憶をたどった。
尊を殺した時点で十分に悪人なのだろうが、あの時の自分の記憶さえも疑わしかった。いつも見る夢が現実だったとは限らない。やはり一度日本へ帰るしかないか。でもどうやって。そういえば私のパスポートってどうなっているんだっけ。気持ちをまとめきれずにいると、ケイが言った。
「あいつが乗る飛行機を落せばいい」
「は?そんなことしたら関係ない人まで殺すことになるでしょ」
「あいつ、自家用ジェットまで用意してるんだ」
「へえ」
表に出てこられない悪党がいくら金を集めたって意味ないだろうと漠然と思っていたが使い道はいくらでもあるということだ。
「落とすのは可能だろうけど、ただ殺すたけじゃ復讐した気になれないのでは」
こう言ってみて、我ながら他人事のような気がしていた。あの時あんな状態になって、世の中の人間が全員死ねばいいのにと思ったし、人とすれ違うたび殺意が湧いてきた時期もあったのに。
ケイは、本当にやつを殺したいほど憎んでいるのだろうか。加担したとはいえ、双子の結束のほうが強いと言うなら納得できるけど。
「わかったからとにかく、一度調べさせて」
そう言って立ち上がった。またやり合わなきゃいけないかと覚悟したが、意外にもそれで納得したようだ。ケイだってこれ以上私と格闘なんてしたくないだろう。
「あなたは日本に帰った方がよいね」
「いや、医者やってるここで」
「あなた誘拐犯になってるかもよ」
「そうじゃないことをおまえが証明するさ」
うまくごまかせるかわからないけど、ケイの気が変わらないうちに帰ることにした。彼の車で家に戻る途中、妙な不安が頭をよぎった。私、自分が愛されていると思い上がってる?もしかしなくても誰も私を捜してないかもしれない。むしろ居なくなってアニーも清々しているかもしれない。
それならそれで荷物だけ返してもらってサヨナラすれば良い。傷つかないようにいろいろ想定してしまうのは本当に私らしい。そうじゃなかったらサムに捜査を打ち切ってくれるように頼むだけだ。
「先に電話すれば」
ケイが言った。
「俺がした方が良いかもな」
すぐそう言ってケイがアニーにかけようとした。番号知っているんだ。そりゃそうか。主治医なのだから。妻の。さっきから眠い。疲れたからかな。うっすらとケイの言葉がよぎった。
「おまえは自分が口にするものに気をつけたほうがいい」
もう少しで今日が終わる。捜索はしたものの結局どこにもいなかった。警察も俺も本気で捜してはいないということか。相手は相当な準備をしていたということか。あいつ、飯は食ったのだろうか。そんな心配だけで済んでいれば良いのだが。今は曲がりなりにも俺たちは夫婦なのだ。もう手続きも終わった。あいつが望めはいくらでも日本へ行ける。もちろん俺も一緒にだ。
今夜は徹夜か。いまだにうろつきまわってくれているボブたちは俺が戻ってこいと言ったのに無視している。
「もしもし」
「ボス」
「誰だ」
聞き慣れない声にボスと言う人間はいない。俺は身構えた。
「今、ユキさんを連れてそっちに向かってます」
「あんた誰だ」
「ロビンです」
医者だと?どういうことだ。
「おまえ」
「何です?」
「彼女は無事なのか」
「無事ですよ。今は眠っていますが怪我もたいしたことはないのでお返しします」
「どこにいたんだ」
会話が切れたところでクラクションの音が聞こえた。
外に出ると車は俺が出て来たのを確認して去っていった。
「良かったですね、無事で」
ボブが言った。俺はソファに寝かせた彼女を見下ろしながらため息をついたが、それが安堵のため息なのか自分でもわからなかった。
サムには明日の朝、来てくれるように頼んだ。その前にこいつから話を聞きたかった。いったい何があったのか。今日は疲れたはずなのに全く眠れそうにない。
夜が明ける前に目が覚めた。どうやら悪夢もみなかったらしい。隣でアニーが寝ているのを見て納得した。起き上がろうと身体を伸ばしたら、起こしてしまったようだ。いや、私が起きるのを待っていたかのようだった。
「あの」
「おはよう」
昨夜は彼がケイとどんな会話をしたか気になるところだが、開き直ってすべてを話すつもりだった。その上で、出て行けと言われたら日本へ帰ればいい。ベッドの中でとりあえず昨日起きたことを話した。かいつまんで。そして私は帰国すべきかどうか聞いた。
「おまえは、どうしたいんだ」
あなたはどうしたいか聞いたのに。私はどうでもいい。だから決めてほしかった。止めてほしかったし、そうでないなら同調して協力するといってほしい。もう日本へ帰れと言ってほしい。散々、いわゆる悪いことに加担してきたのだからこれ以上人を殺す前に死ねとでも言ってほしい。
「おまえ、25だろ。まだ」
「俺も似たようなことをしてきたから人のことは言えないが」
「だから邪魔はしないし、なんなら協力したっていい。約束さえ守ってくれたら」
立て続けにアニーは言った。
「約束?」
ああ。約束ね。そう言って朝が来るまでまた約束を果たした。別に子供を産んだからといって二人の関係が変わることはないのに。家族を知らない私はこれ以上の家族ごっこができない。
朝食にサムも加わっていた。あからさまに不機嫌だ。申し訳ない気持ちで一杯だったので、これで貸し借り無しということにしようと提案した。
そもそも、どういう経緯で知り合ったのか教えてくれというので、思い出せる範囲で過去を話した。こんなことは久しぶりだった。一応、信用できる男二人に囲まれて、まるで尊とケイと三人で食事しているあの時のようだと懐かしさも蘇ってきた。この関係も、いつか壊れてしまうのだろうか。
私と双子が出会ったのはいつだったっけ。親のいない私たちが仲良くなるのは簡単だった。施設のようなところで尊と出会った。施設に入る前の自分はまったく思い出せない。親のことも誰からも教えてもらってこなかった。聞きもしなかったし捜そうともしなかった。そんなに幼かったわけではないのに、記憶がないのだ。でも尊がいたから寂しいとも不幸とも思わなかった人生だ。そういえばケイはあの施設にはいなかった。他の施設にいたのだろうか。ケイに出会ったのはいろいろと尊と仕事をするようになってからだ。双子はなにかと都合が良いらしかった。そっくりなので初見では見分けがつかないという理由だろう。どちらかというと尊が表に出てケイが影、というか陰だった。
それでも三人でうまくやっていたつもりだった。私たちを動かしていたのがあの古本屋だ。やっぱり、あいつが私たちを見限った時から歯車は狂い始めた。尊が足を洗おうとしていたのは事実だ。だからといって殺すなんて。復讐か。あいつが今、どこで何をしているかによって決めようと思った。
調べなければ。その名前も知らない人のことを。
ガツガツ食べる私を見て二人がやれやれという感じで目を合わせていた。
「復讐は勝手にすればいいが、殺人犯にだけはなるなよ」
サムが言った。もちろん。バレないようにやります。その時は。
「それにしてもあいつ、お前の血液をわざわざとって撒き散らすとは」
結局、何事も無かったかのように一日が始まった。アニーは仕事で出かけるというので私は家で大人しく調べ物をすることにした。部屋に籠もろうとすると、犬たちが嬉しそうに尻尾を振りながら入ってきた。
「何」
「監視役だ」
アニーが言った。
「中に入れていいんだ。初めてじゃないの」
「そうでもない」
前に不審者が侵入した時に、家の中に放って捕まえたことがあるらしい。まさか私が外に出ようとしたら噛みつくのかな。面白そう。
真相は謎だが彼らはずっと私の足元に並んで伏せている。数時間たっても微動だにしないとは、優秀な番犬だ。かわいそうになってきた。
「もういいよ、遊んでて」
そう言ってボールをあげたら、途端に部屋中を駆け回って遊び始めた。犬なんてこうじゃなきゃ。そして私の方は、まったく古本屋の尻尾を掴めずにいた。本当に存在しているのだろうか。ケイも実際はわかっていなかった。主に連絡を取っていたのは尊で、私は一度くらいしか面識がない。ケイはプライベートジェットで飛び立ったのは確認していて、その後は日本に戻ってない気がすると言っていた。なぜ私のことは追いかけたのに、やつのことは追いかけなかったのだろう。見失って困るのはあっちの方だろうに。ケイが整形しているとなると、そいつも顔が変わっていてもおかしくない。面倒なことだ。金を集めて何がしたかったのか。もういろいろとやり終えて引退でもしているのか。それなら二人とも諦めがつくかもしれない。社会的にも死んだ人間には手は出せない。
でも尊を殺してまで何か目的があったのなら、絶対に諦めるわけもないだろう。ここ数年で関連するような事件も事故もテロもない。何かやらかす前にこっちが動かないとまた巻き込まれそうだ。嫌な予感がする。
でも予感するだけでは意味がない。
気分転換に出かけることにした。犬たちは遊び疲れて寝ているし。ボブもボスのお供でいない。家を出るのは簡単だ。でもバレたら今度こそ鎖につながれそう。アニーが戻る前には家に戻らないと。
そっと玄関から出て、ちょっと遠いがあの公園まで走ろうと思った。あのパン屋の男が私のことを能力者だとか言っていたらしいとボブから聞いて気になっていた。あの新郎の父親、あの時のことちゃんと見ていたと思うと、他にも話がしたいと思った。私の動きを見ていた?にわかに信じがたい。
わりと人通りの多い道に出たので走るのをやめた。何か殺気を帯びたのが走ってくる。
「逃げろ」
という声と同時に、何人かの悲鳴が聞こえてきた。やばい。また面倒なことに巻き込まれそうだ。その男は刃物を持ったまま人を見境なく切りつけながら走ってくる。良くみると狙っているのは一人の女性の様だった。その女性が私の脇を通り抜ける。私の前方で子供が転んでしまった。私は男がこっちに来るのを待っていたが、子供の前で止まって刃物を持ち換えたのを見てとっさにダッシュした。最悪だ。
自分は足技の方が得意なのだと改めて実感した。一撃が無事にヒットし、男はその場で倒れて動かなくなった。今度は殺してない。
「大丈夫?」
私は子供を立たせて、大人がよくやるように服の汚れををポンポンをと落とすしぐさをした。さっきの女性が戻ってきて子供を抱きしめた。え、この子の母親?あっけにとられてその親子をみていると、警察がやってきた。
「は?ユキ?」
やばい。サムだ。今日は「やばい」を連発している気がする。
「ハイ」
苦笑いしてみせたが、それがバツの悪い母親の表情とダブったような気がした。もしかして、私は余計なことをしたのかもしれない。公園へは行けなくなってしまった。サムに事情を説明して、すぐに帰るからアニーには黙っていてくれと懇願した。大丈夫、サムはまだ私の頼みを聞いてくれる。命の借りを返しきるなんて一生無理なのだ。
幸い死人は出なかった。細かいことは聴きたくもなかったので、その辺の監視カメラでチェックしてくれと言い残し、来た道をそのまま引き返すことにした。
「ちょっと待って」
サムが私を止めた。警察署へ連れていかれそうになったので興味はあったが、今は一刻も早く家に帰りたかったので車で送ってもらうことにした。話は車の中で、ということでサムともう一人の警官が同乗した。サムだけならいろいろ聞きたいこともあったが無理そうだった。無難なやりとりをして、なんの収穫もなく部屋にたどりついた自分にがっかりした。
ケンとジェイが何事もなかったように飛びついてきた。
「ねえ。あなたたちって相当な親友なの」
夜、食事をしながら確信をもって聞いた。アニーは帰ってきたと思ったらいきなり部屋に入ってきて、「明日から鍵をつける」と言って抱きしめてきた。
ようするにサムとアニーはツーツーなのだ。情報が筒抜け。警察官がヤクザと筒抜けってまずいのでは?まさか私が原因?
「あいつが100%おまえの言いなりになるとは思わない方がいいぞ」
笑いながら言われて何も言い返せなかった。その夜は「約束を守ってもらう」という決め台詞がすっかり定着してしまったように、本当の夫婦のように過ごした。彼を好きだが愛しているかと聞かれたら答えられない。でもこの人のことは守らなければいけない。
「それが愛というものだよ」
どっかから聞こえてきそうだった。
ユキに話そうと思ってやめたことがある。俺たちは一度ずつあいつに会ったことはあるが、あの古本屋では顔を少し見ただけだ。俺は基本的に自分しか信じない。あいつがユキに執着し始めたのもすぐに気づいた。だから見張っていた。見張られていたのも知っていた。あいつが尊を殺そうとしていたこともその過程で偶然知っただけだ。そんなことは今更だが、惚れたとか愛とかそういう感情ではない、純粋にユキの能力を自分が利用したかっただけだろう。だからその計画を俺が引き受けた。
ユキは自分が特別な能力を持っていることをよくわかっていない気がする。飛行機を落とすくらい簡単だと言ってのけるが、普通の悪党はそれが容易なことだとは思っていない。ある意味、天然なのだ。発揮されるときもあれば、されないときもある。誰にもわからない。
俺たちが必死に捜さなくても、そのうちあいつの方からコンタクトを取ってくるはずだ。だがそれでは利用されるだけで終わる可能性が高い。先に動かなければ。俺たちの共通認識だ。天然がどういうわけか今日はまたひと騒動に勝手に巻き込まれて目立ったらしい。そうやって自分がここにいることをやつにアピールしているとさえ思える。確認したいところだがそれは今度会ったときまで取っておこう。古本屋が俺たち以上に頭のいかれた悪党だってことは承知している。気をつけろとだけはもう一度言っておく必要がありそうだった。
翌朝、結局サムがやってきたので昨日の詳細を全部知ることになってしまった。
「犯人は父親だった」
一緒に朝ご飯を食べながら、この人は毎日ここに来ても違和感がなくなってきてるよね。とアニーをみたが、彼は首をかしげるだけだった。意味がわからない。
聞きたくなかったが父親といっても義父で、母親は母親でこれを機に自由になりたかったと素直に供述したらしい。子供を見捨てたわけだが、残念ながら私が助けてしまった。あの子供は養護施設へ入ることになるという。ああ、もう考えたくもない。まるで自分を見ているようだった。そのうち「なんで僕を助けたの」って子供に恨まれそうだ。産んだ親の方を恨みなさいよ。って言ってやるつもりだ。そうやって生きていけばいいと。
黙々と食事をして今日こそパン屋のおじさんに会いに行こうと思っていたら、向こうからやってきてくれた。
「パンを持ってきました」
本当に持ってきてくれるとは律儀な人だ。しかも私が買ったのと同じパンがもれなくかごに入っていた。有難くちょうだいし、お茶に誘ったら快く応じてくれた。アニーもおじさんなら文句も言わないだろう。二人きりで話したかったが、どういうわけかサムも帰らないし、アニーも同席していた。
「昨日は大変でしたね」
「知ってるんですね」
ただの情報通のおじさんなのかそれとも何かあるのか。
「あの子、しょっちゅう私のところへパンを取りに来るんですよ」
おじさんはそういう子らにパンをあげているらしかった。頭が下がる。施設のことを聞いたら、この土地の施設はなかなか粗悪な環境らしい。でもそんなもんでしょ。あの子の顔が目に浮かんだ。私にどうかしろとでも言っているのだろうか。
「以前から義父に暴力を受けていたんでね」
「うちで引き取ろうか」
意外なところでアニーが口を挟んできた。はあ。なんでそうなる?偽善者。誰が面倒みるのよ。ヤクザがそんなことしても意味ないって。と思いつつ、実は私もこの偽善者によって引き取ってもらってこの国にいる犯罪者じゃないか。と我に返った。私が反論しないのを確認したおじさんは話を変えた。
「ところであなたはいつからそうなんです」
は?意味がわからなかった。困惑しているとアニーが答えてくれた。
「こいつは幼少期の記憶がないんですよ」
「こいつに能力があるというのは否定しないが」
能力ね。超能力?どうだか。慌てるのも変なので淡々と話した。
「私が首を触るのは、頸動脈の動きでその人が焦っているのかどうかとか、勝手に判断しているだけですよ」
「それと、実は視力も良すぎて、遠くの人の視線も感じることができるし、嗅覚もたぶん人より効くのでいろいろわかるんです。危険な臭いが」
ふふっと薄ら笑いをして冗談ぽく言った。
「そうなんですね」
なぜか3人ともが妙に納得した様だった。良かった。
「格闘技の方は、記憶がある時にはすでに習得していたのでどこで習ったかはわかりません」
「ハッカーのスキルも?」
サムが割って入ってきた。
「それは施設にいた頃に人に教わって」
いつまで私の話するの?と苛立ちが表情に出始めた。それを見たおじさんはさっと立ち上がり、
「いや、お邪魔しました。またパン届けますよ」
そう言って部屋から出て行った。
思い出そうとすると吐き気がする。サムも帰ってくれたのでアニーにもたれかかって少し休もうと思った。いや、ちょっと待って。
「ねえ、あの子、引き取るって言った?」
「言った」
「養子にでもする気」
「まさか、施設よりはうちの方がマシだろうと思って」
「ふーん」
ならいいかどうでも。会ったこともない子をいきなり養子はないか。金持ちが考えることはわからない。
あのオヤジが言うように、こいつはちょっとした能力を持ち合わせているのかもしれない。偶然にも程がある。出かけた先で事件に遭遇するなんて。本人は気づいていないようだが、また一人の人間の命の恩人になった。子供だから今は死んだほうがマシとか思っているだろうがマシな人生を送ればいずれ感謝するようになるのだろう。本当なら昨日殺されていたのだから当然だ。
願わくばこのあとは何も起きないで欲しい。俺の妻として俺のことだけを考えて、一緒に歳を重ねていけたら良いのに。望みが高すぎるのだろうか。こいつだって本当は平和に生きていたいはずだ。あの時、瞬間的に言った言葉は本物だと信じたい。俺にまとわりつく女は死ぬほどいたが、結局は俺の金目当ての不良ばかりでうんざりしていた。そもそも日本の「ヤクザ」がどんなものか知らないが、それと同等だという俺と関わりたいなどと考える女は頭がおかしいだろう。まだ金目当ての方が安心できる。金にものを言わせて、男としての欲を満たして生きてきただけだった。そんな時に現れたあいつに心奪われても当然だと、自分でも思う。たとえ人のものだったとしても、自分が守らなければならない。
しばらく二人で無言で座っていたが、ボブが呼びに来て現実に戻った。俺はこいつの他にも守るものがあることを思い出した。
アニーが出ていった後も、一人でしばらく思案していた。
何の手がかりも掴めないままで、これではケイに疑われてしまう。二人ともやる気あるのか?って尊の声が聞こえてきそうだ。なんのために俺が、って言っているだろうか。ケイの言う通り尊は自ら死に向かったのだろうか。弟のために? 考え事をしているだけでは記憶は戻らない。
ふと気づいたら出ていったはずのアニーが私の横でパソコンに向かって何かしていた。
「今日は家で仕事?」
「まあね」
自分で監視しないと気が済まなくなっているようだった。私だって別に危険なことに自ら首をつっこんでいるわけじゃないのに。形だけでも今はこの人と夫婦で、だからこの国で暮らしていられる。感謝しなくては。久しぶりに私も働くか。少しは役に立っておかないと本当に捨てられるかもしれない。
「空港近くのカジノを任せてる人って信頼してる人?」
「なんでそんなことを聞くんだ」
「別に。そういう人ってわりと収益ごまかして自分の懐に入れちゃってるイメージしかないから」
「あたり」
「やっぱり知ってたんだ」
でもわざと知らないふりをしているみたいだった。報酬の一部だってさ。一定の額を超えるまでは。寛大な経営者だ。後釜もいないからしょうがないようだった。それにしても人は何でお金に執着するのだろう。食べていけたらそれでいいとは思わないのか。私は仕事、たとえ犯罪だとしても、そのものにスリルというか楽しみがあれば満足するけど。実際、アニーも金持ちのわりには、外食もあまりしないしプライベートジェットなんか要らないよね。自分の飛行機ってそれこそ犯罪にかかわるようなやましいものを運ぶためとしか思えない。
世界中に自分の飛行機を持っている人ってどれくらいいるのだろう。何百機もあるわけじゃないだろうし、一つ一つ、しらみつぶしに当たっていけばいいのかもしれない。はあ。やっぱり面倒くさいから、あっちから接触してくれるように仕向ける方が賢いかな。そう思ってちらっとアニーをみたら、ダメだと言わんばかりに首を振った。何も言ってないのに。なんだかんだ、今を楽しんでいる自分がいた。
そんな時、久しぶりにショシュアが連絡してきた。あれ以来、何の音沙汰もなかったのに急に何かと思ったら、今夜、ある番組で歌うらしいのだが喉の調子が悪いとのこと。テレビ局に来てほしいという。それは気の毒なことだけど、アニーが許すはずないので無理だ、と返事をした。
「なんだって」
アニーに聞かれたので一瞬焦ったが、隠す必要もないと思い直して説明した。アニーは溜息をついて考え込んでいたが「行ってくれば」と意外なことを言ってきた。
「生歌、聴きたいって言ってたろ」
「たしかに」
ついでに聴いてこよう。ボブと一緒に行くということで話が決まった。テレビ局なんて初めてだ。面白いことがありそうだった。
控室に案内されると、彼が入って来た。久しぶりといっても十日も経っていないが、ジョシュアは少し大人っぽくなっていた。キラキラは健在なのだが、どこか寂しそうで心が痛んだ。もう、ハグすることもない。
「ちゃんと加湿してる?」
私はそう言ってそっと喉に触れて温めた。こんなことは気持ちの問題なのだと言いたかったが、後ろめたい思いが心から彼の喉の不調を改善させようと念を込めた。
「ありがとう」
彼はにっこりそう言ってリハーサル会場へ向うために出て行った。ボブが「本当にこれだけのことでユキを呼びつけたのか」とうんざりしたような視線を送ってきた。まあ、いいじゃない。彼は歌うことに命をかけてるわけだから。それでいい。
本番も見学できるというので、控室で待っていたが、この番組はオーディション番組だという。ジョシュアたちはその審査員を兼ねて最初にライブを披露するらしかった。それにこれは生放送なのだということがわかった。途端に妙な緊張感が走った。私が歌うわけでもないのに。
そのうち理由がわかった。別の部屋に集められた出場者たちが緊張の渦につつまれていたのだ。
「ユキは歌ったりしないんですか」
ボブが飲み物を買って戻ってきた。私は人前では歌わない。タダでは。なんて言ってみたかったが、本当に目立つのは好きじゃないので首を振ってごまかしておいた。
「なんか、パートナーが来ないって焦ってるやつがいましたよ」
あらあら。ありがちなトラブルですこと。こればっかりはどうにもできないよね。可哀想に。
「それで、一人で来ているやつに片っ端から声をかけてるみたいで」
ちょっと待てよ。ふいにチャンスが来たように感じてしまった。その子にとりあえず会ってみよう。立ち上がって廊下に出ようとしたら、ドアがノックされ男の子が入ってきた。こいつですよ。ボブが言った。
「あの、歌とか歌ったりしませんか」
ボブに向かって聞いている。ボブが「俺かよ」とうろたえ始めたのでおかしくなって笑ってしまった。そう。ボブが出ればいい。
「ふふ」
声に出た瞬間、男の子が私を見た。ボブが嫌そうな顔をしているので代わりに言ってあげた。
「あなた、別に一人で出ればいいじゃない」
無理に直前にパートナーを作ったって失敗するのがオチだ。
「僕、一人は無理なんです。せめてサビの部分だけでも誰か歌ってくれないと」
「それは無理でしょ。審査員だってそんなの即席コンビだって見抜いちゃうよ」
「じゃあ棄権するしかないです」
しょんぼりする男の子にイラついてきた。根性無しが。
「わかった。私の知ってる曲で良ければピアノ伴奏で出てあげる。あとサビのハモリね」
どうやらジョシュアの曲が課題曲らしい。それなら大丈夫か。三十分程度、適当に打ち合わせして本番に参加することにした。もちろんジョシュアには内緒だ。
ジョシュアたちが新曲を歌っているのを会場の端で聴いた。本当はこれを聴くためにイギリスに来たのに、不思議なものだと思った。私はもう、一人のフアンに過ぎない。長居はしたくなかったので、オーディションの順番を最初に持ってきてほしいとスタッフに頼んだ。案外すんなり受け入れられて、私はあたかも元から彼のパートナーだという体でステージに出た。念のため持ってきていたメガネをかけ、服も着替えてジョシュアにもバレないように気をつけた。
ピアノは感覚で弾ける。これはバラード調なのでゆったりと悲しげに。ステージに上がる直前に聞いた名前、レイという男の子が歌い始めた。きれいな声だ。ジョシュアと似ている。本当のパートナーが来ていたら結構いい線までいけたのではないかと思った。
君は僕から離れていかないよね。
信じている。信じている。
君が居なくなったら僕は。
誰に嫉妬すればいいの。
サビの部分はレイの邪魔にならない程度に合わせて歌った。私のピアノに合わせて歌ってくれているので彼が私に合わせているように聴こえてしまったかもしれない。練習もろくにしてないのだから致し方ない。それでも出たいと言ったのは彼だ。
サビを転調して繰り返し、終了。その瞬間、大歓声とともに拍手が響き渡った。良かった。
安堵して、私はステージの袖に消えた。レイがインタビューを受けている間に退散するつもりだった。だがそうはいかなかった。ジョシュアがステージに上がってきてそのまま袖に入ってきた。
「待って」
そう言って私の腕をつかんで振り向かせた。
「ええ?」
すぐにバレてしまった。私はジョシュアに負けないくらいの笑顔でにっこり笑ってみせた。
「君が歌うなんて」
事情を話して帰らせてもらおうと思ったが、ステージでレイが全部正直に話してしまったようだ。他の審査員も私のところへやってきてステージに戻るように言ってきた。レイが「お願い」というしぐさをして手招きするので、後に引けなくなってしまった。これは「やばい」。アニーの顔が浮かんだ。
「私はただの日本人観光客で、さっきたまたま困っていたレイに出会ったんです」
と経緯を説明し、今日合格しても次に彼と出るのは別の人間だと言った。審査員は困惑していたが、一応、レイは合格した。
ヘタレが出る番組を見るのは初めてだが、一度くらい観てやろうという気持ちでテレビをつけた。やつらが歌い終わってすぐに最初の参加者の演奏が始まったのでそのまま流れで観ていたが、盛大にビールを撒き散らしてしまった。
「どうなってんだ」
変装しているようだがユキだろ。
「何やってんだあいつ。」
それも作戦なのか。大したやつだ。言葉もでない。そして透き通るような歌声。俺の心拍数を上げるような歌い方はやめてくれ。
ヘタレ二号みたいなやつに恩を売るためか?それとも敵に見つけさせるためか。そうだろうな。完璧だ。これは思った以上に速い展開が待っていそうだ。せっかちなやつだ。ビールの二本目をがぶ飲みした。
返ってきたボブの胸ぐらをつかんで怒りをぶつけた。ボブは悪びれもせずに「ユキは多才ですよね」と得意げだった。お前はあいつのマネージャーにでもなったつもりか。怒るきも失せる。
あの後、サムからも「気をつけた方がいい」と電話を受けた。大半の人間は気づいてないだろうが、ユキを知っている人間から見れば隠しようがない。あの医者の差し金か。
「おい」
「いや、ほんと、偶然なんだってば」
「そんなわけあるか?どうせあの医者あたりが二号のパートナーが会場に向かうのをどっかで阻止したんじゃないのか」
「二号?」
「あ。いや」
まあ偶然だろうが意図的だろうが、行かせた俺が悪いということだ。それに、誰に歌ったのかと想像するだけでこっちが嫉妬に狂いそうだ。そんなこと、こいつはわかりもしないのだろう。
「約束は守ってもらう」
「なんだか合言葉みたいになってきたね」
バカの一つ覚えみたいに連発する俺を楽しんでいるかのようだった。
「やっと私の存在を思い出してくれたようだ」
何度も動画を観て嬉しそうにワイングラスを傾ける男がいた。
「おい、飛ばす準備をしろ」
言われて何人かの男が部屋を出て行った。
どこかからのプライベートジェットが一機、空港に降りたという情報をケイが持ってきた。所定の場所につけてから、まだ誰も出てくる気配がないという。
「俺の見たのと同じ機種なんだよな」
「じゃあ誰のか調べてみる」
私はそう言って、パソコンを開いた。まだ通話は切れてなかったのでケイの声が聞こえてきた。
「あいつだったとしても、勝手に動くなよ」
わかったわかった。約束はしないけど。
「でも、名前や素性がわかったところでそいつだと特定はできそうにないよね」
結局は相手の出方次第なのだろうか。それでは負けてしまう。でも、負けるとどうなるのだろう。殺されるのか。
「おそらくあいつの目的はおまえだろうな」
「なんで」
「お前しか出来ない仕事でもさせたいんじゃないのか」
「なるほど」
仕事って、どんな悪事を望んでいるのだか。まだお金が欲しいのか、単に人を殺したいのか、人物像がまったく読めない。でもそれなら復讐するチャンスはありそうだ。悪さする前に殺すしかない。結局、私?なんで。私程度の人間なら他にもいるでしょうに。
「万が一の時のために、銃を用意しておいて」
ケイに言った後でサムに電話をかけた。
「忙しいんだ。悪いがしばらく連絡できないかも」
そう言って切ってしまったが、良い選択だったろうか。さすが情報が早いな。怪しい飛行機がこの国に入ったのは知っている。誰も出てこないが、とりあえずは誘導に従って専用の駐機場に入ってそれきりだ。警備隊が取り囲んではいるが、中に病人がいるらしくしばらく待機するからお構いなく。という連絡だけが残されている状態だ。事件が起きたわけでもないから完全に非公表状態だ。
まさかあれがそのプライベートジェットなのだろうか。
だが今日が忙しいと言ったのはこれが原因ではない。市内で園児二十人が乗った観光車両が行方不明になっているのだ。どうやら乗っている子供の中に上流階級に属する子供がいるらしい。まったく誰のガキだ。なんでそんなバスに乗っていたのだか。社会勉強か。やっかいな事件になりそうだ。
警察官総動員で捜しているが何故かみつからない。監視カメラにもどこにもいないのだ。
結局、相手の出方次第という待ちの状態が続いている。お偉いさんがいくら警官のケツを叩いても無理なものは無理だ。事件はこれだけじゃないのだから。俺はあいつが無茶をしないように見張る義務もある。自分がタフな男で良かったとつくづく思える瞬間だ。
「おい大変だぞ」
同僚が電話してきた。早速、犯人からコンタクトを取ってきたらしい。やはり身代金目当ての誘拐事件か。
「犯人は、女を連れて来いと言っている」
「女?」
どの女だ。刑務所にいるテロリストか。それとも元妻とか。くだらない。
「カジノ王のところにいる女だと」
「ユキか?」
「らしいな」
なんてことだ。しかもあのジェットまで連れて来いと言っているだと。つながっているわけか。
目的は何だ。まさか女一人を得るために?いや、テロリストなら仲間を救う手段としての誘拐はあり得るが、仲間だと?
電話を切ってすぐにかけた。
「今度は何だ」
「ユキはいるか」
「目の前にいる」
「聞こえないところまで離れてくれ。話がある」
アニーに状況を話し、絶対に家から出さないように頼んだ。
「直ぐにそっちへ向かう」
正午までに要求が実行されなければ子供の一人を殺すという。その一人がお偉いさんの子どもじゃなくたって差し出す方向だろう。当然だ。
「私は別に構わないけど」
実はアニーよりも先に情報を得ていた。アニーもサムも一瞬驚いたような顔をしてこっちを見たが、ケイの仕業だと理解したら直ぐに本題に戻ってくれた。
私と人質全員が交換されるわけではない。それに、私を使って何か大それたこと、例えば飛行機を落とすとか。そうなれば初めから少数の犠牲で済ませた方が良い。今止まっているその怪しい飛行機を爆撃でもした方がマシだろう。
自分がその対象だと、そういうことはなんだか言いにくい。私は命が惜しいわけじゃない。
私が大量の罪のない人を殺るのが嫌なだけだ。いくらゴミだからと思っても、さすがに。出来ない。それに接触したら何かしらチャンスはあるかもしれない。わからない。
ギャンブルの経験はないから二人に決めて欲しいけどそれも無理な話。三人ここで待っていればいずれ警察が来るでしょう。ケイから状況を聞いたとき、彼は今すぐ逃げたほうが良い、と心にも無いことを始めは言っていた。でも不可能だとわかっている。
だからいくつかの事態を想定して、警察のフォローをしてくれとお願いしておいた。
「俺は反対だ」
アニーがそのガキと私とどっちの命が大事なのだと言わんばかりに拒否するようサムに詰め寄った。たがこのままでは間違いなく一人殺される。
「私が行けばその時点では誰も死なないだろうけど、そのあとが問題よね」
本当の目的がわかならいことには、解決策も浮かばない。行き当たりばったりになりそうだった。サムは私を連れてこいと言われているのだろう。頭を抱えたまま動かなくなってしまった。はい、決められない人。優しい人。
「とりあえず時間がないから、行くしかないでしょ」
私がそう言ったのを、二人は否定しなかった。サムにお願いをした。どんなチャンスがあるかもしれないから、私がどうなっても、私に武器、例えば銃とかナイフとか、手に届くところに置いといて欲しい。そして、私は絶対に悪人以外の人を殺すような真似はしないから信じていてほしいこと。
アニーにも、とにかく帰って来るから信じて待っていてほしいと伝えた。まあ、この約束は保証できないけどね。予測できることは、また記憶が無くなるかもしれないこと。本当の私が悪人かもしれないこと、もしそれがわかったら殺してくれて良いということ。
「命の重さははかれないけどね」
「地の果てまで捜すとか、そういうのもいらないから」
私だけが話している。結局、あなただってヘタレじゃないの。なんて思いつつ。行ってきますと言って家を出た。そうでも思わないとやっていられない。体調は悪くない。大丈夫。まずは古本屋がどんな奴か確認しなければ。
サムと二人で空港へ向かった。車の中で思い出したようにアニーへの言付けを頼んだ。サムにも覚えておいてほしいと。私たちの約束を。
「はいはい」
そう言ってサムは不機嫌なフリをしているようだった。今度こそサヨナラかもしれないのだからもっと話そうよ。そう思いつつも彼の沈黙に従った。
十二時前に空港に到着した。例の飛行機の手前に車をつけると、サムが降り立って他の誰かと話し始めた。私は一応サムから預かったナイフを靴に忍ばせたが、あまり意味がないように思った。ものすごく嫌な予感しかしない。
今日でもう、私の人生が幕を閉じるのかと思うと、どんな人生だったか振り返る時間が無性にほしくなった。もう遅いが。
気づくと飛行機のハッチが開くところだった。正午きっかりだ。中から、子どもが出てきた。その瞬間、サムを含めた警官たちがどよめいた。行方不明の子供の一人だった。
お偉いさんのガキかどうかは私にはわからないが、いつの間に飛行機の中に入ったのか。
病人が居るといって待機していたその時、物資の搬入で何人もの子どもを入れたのか。どうりで街中捜しても見つからないわけだ。バスはどこに。どれだけの人間が関わっているのだろうと興味がわいた。
サムが車のドアを開けた。行けということか。はあ。一人の子どもの命を救っただけでも、誰か褒めてくれるかな。子供の後ろに男が一人いた。知らない男だ。
なんで子供だからって大切にされるのだろう。普通の子は大切にされる。私は違った気がする。今となってはそんなことはどうでもいいか。
車から降りて子供の方へ歩いた。私が私であるかどうか、どうやって判別するのだろう。身代わりを用意するなんて無駄だとわかっているということか。
しかし、そういう疑念は意味がなかった。あと数メーターというところでいきなり後ろの男が手に持っていた銃を私に向けたかと思うと考える間も与えず引き金を引いたのだった。
その瞬間、私は子どもと男の間に割って入ったが、一撃をくらってその後はよく覚えていない。その子は無事に親元へ帰っただろうか。
俺は状況が把握しきれなかった。一瞬にして銃弾が彼女の腹部にあたったように見えたが、男は倒れ込んだ彼女を抱えて中に戻っていった。取り残された子ども一人を保護し、いったいこの後はどうなるのかと頭を抱えた。あいつは大丈夫なのか。やはり殺すことが目的なのか。
反撃を防ぐために撃ったのだろうか。彼女がやり手なのを知っているということか。
中には本当に何人の子どもが拉致されているのだろうか。全員だとすると二十人か、引率の大人もいるのだろうか。人質が多すぎるのも厄介なことだ。これは犯人側にもいえることだ。ごちゃごちゃと思考を巡らせているだけの自分に腹が立ってきた。
ハッチが閉まるかと動きを静観していた。十五分くらい経ったろうか、ぞろぞろと子どもたちが出てきた。彼女が交渉したのだろう。おそらく子ども一人を残した状態でハッチが閉まった。
引率の大人も無事に解放された。中でどんなやり取りがあったのか。俺が聞き取っている時間はない。すでに次の段階に入っている気がする。その古本屋のボスが納得する何かを彼女が提供したに違いない。忠誠心か。もちろんそれが作戦のうちだということは理解している。
とにかく、俺は彼女が行くかもしれないところへ先回りする必要がある。ロビンを名乗るあのケイというやつにも銃を用意してくれと言われた。何故、銃にこだわるか聞いたとき、彼女は有能なスナイパーであることを知らされた。嘘をつかれる必要もないから事実なのだろう。子供の頃からそういう教育を受けてきたのだ。記憶が消えたとしても武道とか射撃とかそういう体に染みついたことは忘れないものだ。
その場で仲間が聞き出した内容だと、園児を乗せた観光バスは出発した時点で空っぽの状態だった。バスに乗り込む直前に別の乗りものにうまい具合に誘導され、気がついたらいくつかの箱に入れられたそうだ。どうやって荷物として搬入されたのかは不明だが、バス自体はバス会社の倉庫に戻されていたので誰も気づかなかった。監視カメラを操作し、人に見られないように行われたこの犯行は見事としか言いようがない。そして簡単に一人以外を解放した。
何とも言えない感情が襲ってきた。ゲーム感覚という次元でもなさそうだ。
腹部に弾が残っているようだった。不思議とそれほど痛みを感じない。空気銃で撃たれたような感覚。撃たれたことはないけど。そんなことを考えている余裕はあったようだ。目の前に十数人の子供たちが見えた。恐怖に怯えた目で私から目を背けることができずにいる。可哀想に。トラウマになるくらいならいっそ死んでしまった方が幸せじゃないの。
でもサムとの約束を果たさなければ。腹を押さえていない方の手で体を支えて立ち上がると、古本屋がいた。
「久しぶりですね」
そう言って近づいてくると、私を席に座らせた。一度しか会ってないので、懐かしい感じはしない。
「暇なときはあなたを捜して見つけて。みていましたからね」
今回は私がいきなり出国し、それが忙しい時だったので見失っていたそうだ。
「ケイがあなたを追いかけてくれたので助かりました」
「いろいろ積もる話があるのかもしれないけど、とりあえずあの子たちは解放して」
こんな狭いところに何人押し込んでるのだか。荷物じゃあるまいし。奴もそれは思っていたらしく、案外すんなりと応じてくれた。良い人そうな雰囲気なのに。どういう育て方をされたらこうなるのだろう。私もだけど。
一人の子供を残して全員を外に出した。機内にいるのは操縦士とさっきの男と、裏にまだ数人いそうだ。私は聞いてみたかったことを訪ねた。
「なんで彼を殺したんでしょう」
古本屋は「邪魔だったから」とだけ言って、私の耳元でささやいた。
「私とあなたは似ていると思うのですが、どう思います」
「残忍なところは似ているかもね」
私が言うと、衝撃の一言をつぶやいたのだった。
「私があなたを育てたのだから当然でしょうね」
はあ。そういう茶番な感じが嫌いだ。一気に冷めた。真に受ける振りでもした方が良いのか迷った。反応しないでいるとさらに言ってのけた。
「あなたの両親を殺してしまった負い目もあってね」
途端に頭痛が襲ってきた。記憶がかき乱される。親はその生死に関わらず誰にでもいる。私には気づいたときには存在していなかった。でも記憶があるときの年齢を考えると、わりと最近まで一緒にいたのだろうか。
「そんな理由じゃないでしょう」
「わかります?私はあなたの記憶が欲しいだけですよ」
「思い出そうとして思い出せることではないでしょ」
「でも今回は思い出してもらいます」
急に怒りが込み上げてきた。父親はやつのために何かを作っていたらしい。でも完成したら家族全員殺されるのを知っていて、完成後にデータを全部消去した。普通は物理的に隠す以外、貴重なものを守ることはできないが、古本屋は父親が娘の私にそのデータを残したと思い込んでいる。私の頭の中にあるって。面白いことを言うおじさんだ。
その瞬間、感情が勝ってしまい古本屋を頭突きした。こんなのを見せてしまって、この子には悪いけど気がすまない。いっそ今、殺してくれ。さっきの男が瞬時に私を引きはがし、奥から二人出てきた。これで全員か、戦力外の女を殴る男の気持ちってどんなだろう。
「やめろ」
ボスに言われて、手を止めた男たちが奥に下がっていった。私はまた座らされた。
「で、あの子を人質に取って何をするつもり?」
かろうじて声に出して言ってみたが、古本屋は予想外の話をした。
「あの子は賢そうな子だろ」
一人になっても何もせずじっと耐えている。確かに子どもにしては違和感があるくらいだ。まさか連れて帰るつもり?
「だったらこのまま離陸して帰りましょう、あなたの家へ」
「それじゃつまらないだろう」
どうやら飛行機数機分の命と引換に金を要求するつもりらしい。結局、金?それで何がしたいのだか、ただ楽しんでいるだけかもしれない。規模が違うが私と似ているというのはそういうところか。この人も死にたがりなのかもしれない。
「ふ」
思わず笑ってしまった。知りもしない親のことを聞かされて、それを信じて頭にきて。しょっちゅう記憶をなくすのに到底人間脳の領域を超えたデータを私が覚えたとでもいうのだろうか。確かにそういう人がいるようなことは聞いたことはあるけど。
サムはじっと飛行機をみていた。
いてもたってもいられないアニーが空港まで来てしまった。どうやって俺のところまで入り込んできたのやら。彼女の状況を軽く説明しておいたが、今もし彼女を見たら何をするかわからない。とりあえず大丈夫だからと空港内のホテルで待っていろと無理矢理さがらせた。あいつは素人ではないが警官でもない。
彼女もどちらでもないのだろうが、撃たれてあれだけ無反応な人間も珍しい。無反応ではないか、瞬時に動けていたのは気づいていなかったからか。まさか。
くだらないことを考えながらも、自分はさほど心配していないことに気がついてしまった。彼女は大丈夫だ。
携帯が鳴った。
「ハイ」
ユキかと思った瞬間、
「車を一台、用意してくれ」という声に変った。
主犯の男か。古本屋。
「車だと?何が望みだ、何を要求する?」
「子供を殺されたくなかったら黙ってみていてください」
「子供はいつ解放する?」
「五分でお願いします」
電話を切られた。車を用意させるしかない。その車にも一応しかけておくか。座席の下に銃を忍ばせたが、敵に気づかれないようにするとあいつにもわからないかもしれない。そこは深く考えないようにしておこう。
ハッチが開き、中から子供と男が出てきた瞬間、俺は絶望の淵に立たされたような気分になった。貴族のおぼっちゃんのはずが、何者かもわからない子供にすりかわっていた。さっきの話では、確実に人数を合致させていたのに。どこからわいてきた子供か。他にも人質がいるということだった。
最悪なのは、続けて出てきた男がわきに抱えてきたのが生きているかもわからないくらいの彼女だった。様子をみていた全員が息を飲んだ。
テロらしい誘拐事件と判明してから、空港自体を閉鎖すべきと主張したが、まだ公にする必要はないと判断されて極秘にこの駐機場だけが閉鎖されていた。今も離着陸する飛行機が滑走路を行き来している日常のままだ。
どうみても抵抗できる状況ではないのに、後ろに手錠がかかけられた彼女をみて、もうだめかもしれないと今朝話していたことを思い浮かべた。いくら結果的に大勢の人の命を救うことになっても、一人を意図的に犠牲者にすることには反対だ。だが彼女はそっちを選べと言っていた。それは自分がその一人になっても変わらないのだと。本当か?
四人が乗った車は予想通り、管制塔へ向かっていた。
「お金も要求するんじゃなかったっけ」
私がぼそっと言うと、男が言った。
「俺もボスも金には興味ないからな」
計画通りということか。この状態で私に何ができるだろう。もう気力もない。この子もどこの国からさらってきた子なのだか。どうせ親なんかいない子なのだろう。無事に古本屋とどこかへ帰ったとして、さっきの子と同じように育てられるのだろうか。もしかしたらここでの捨て駒になるのかもしれない。一人も二人も変わらないか。アニーが引き取ってくれたらいいけど。
古本屋がサムに管制塔の人間をすべて外に出すように言ったのだろう。中からぞろぞろと人がでてくるのが見えた。いい加減、他の関係者にはバレたろうが、まだパニックにはなっていないようだ。全ての便がシステムトラブルかなにかと言い訳されて停止しているはずだ。着陸も他の空港へ回せるものは回して、数機上空をぐるぐるしている。私がここに着くまでの数十分の間にここまでやってのけたのはさすがだ。はやく済まさないとこっちが何もしなくても飛行機が落ちてくる。まったく、こんな状態でふざけるな。ふざけたゲームに参加させられた私は、誰にというわけではないが悪態をついた。
私を椅子に座らせると、男は手錠を外した。耳につけられたイヤホンから古本屋のささやき声が聞こえた。
「では、お願いします」
上空に残っているすべての飛行機を落とせという。その三機は指示を待っている状態だった。非常事態だということはわかっているだろう。機長らも自力で降りてくることになるのは覚悟しているはず。正直、私は目も開けられない状態なのに。薄目で周りを見ると子供に銃を向けた男と、私に銃を向けた男、それ以外は誰もいないようだった。サムは見ているだろうか。私を。残念な姿をみられるのは心外だったが、これでお互い様だ。
「おい、早くしろ」
はっと我に返った私は、仕方なく両手をキーボードの上に置いた。三機のシステムを操作し、最後に燃料のメーターをほぼゼロにした。もっと時間がかかるかと思ったが、思いのほか順調だった。だが残った時間でやることはあった。古本屋のいうところの私の記憶とは何なのだろう。思い出せないとしても飛行機を落とせばいいのであれば記憶は必要ない。でも無意識のうちに手が動いているのは不思議な感覚だった。一時間もかからなそうだ。
「終わった」
そう言って私は古本屋の返事を待った。
「ご苦労様。では戻ってきてください」
「その前にここのむかつく連中を始末していい?」
日本語で言った。男どもに日本語はわからないと踏んでいたが、万が一聞かれてもここのスタッフのことだと勘違いしそうなバカだから大丈夫だろう。私は手をデスクの下に潜り込ませ貼り付けられていた銃を取った。サム、ありがとう。
「別にあなたが戻ってくれば構いませんよ」
それを聞いた瞬間、やることがなくて暇そうにうろうろと入口付近にいた男の頭を撃ちぬいた。子供といた方の男がこちらへ銃を向けたが、私を殺す指示がでていないためか固まっている。再び子供に銃が向かないうちにそいつの頭にも弾を送った。
すぐに子供においでという仕草をしたら、素直にこっちに来た。
「名前は?」
「アン」
アンなんてこの子も男の子なのに可愛い名前。それにこないだの子はギルバートだし。
手を貸してくれる?そう言って、彼の手を持って立ち上がった。一緒に外に出るとサムが走り寄ってきた。
「大丈夫なのか」
「この子、アンっていうんだけど、アニーによろしく言っといて。簡単でしょ。」
返事を聞かずに車に乗り込み、自分で運転して駐機場へ戻った。
いきなり銃声がして突入すべきか迷ったが彼女を信じて下で待っていた。彼女ほどではないだろうが、生きた心地がしなかった。数分後、出てきた二人をみて何故かほっとした。生きている。まだ。
人質なのかもわからない子供を託され、彼女は駐機場へ戻っていった。管制塔へ入ると、男が二人とも死んでいた。一刻を争う状況なので、すぐにスタッフを中へ入れ、状況を確認させたが、システムはどうにもならないようだった。飛行機は落ちるのか。大勢がなすすべもなく、混乱の中に身を置いているだけだった。
ここへきてやっと、空港にいる人間に避難命令が出た。パニック寸前だろうが、飛行機がどこに落ちるかもわからない。今は上空の三機をどう無事に着陸させるかが問題だ。古本屋が金と引きかえに解除方法を教えるかもしれないと、要求を待ったがそれはなさそうだった。結局、なんの主張もないただのサイコパス。あいつの言う通りだということか。くそ。
「その子も降ろしてあげてくれない?」
ハッチを閉める前にダメもとで聞いてみたが、無視された。やはり二人殺されたことに腹を立てていたのだろうか。代わりに私がセットしたシステムを稼働させてしまった。
「では帰りましょう」
そう言って飛行機が動き出した。このまま逃げ切れるのだろうか。もしかしたら今度こそ撃墜されるかもしれない。金さえ出せば守ってくれる国もあるらしい。その国までは数時間。どうでも良くなった私は、全身の痛みより睡魔の方が勝って眠ってしまった。いっそまた記憶が無くなっていればいいと願いながら。
駐機場からやつの飛行機が出たと連絡が来た。外をみると滑走路を加速していく飛行機が見えた。あいつも乗っているのだろう。子供は降りたのか?俺が叫んでいると、システムが動き出した。このままでは本当に大惨事が起きてしまう。スタッフが必死に解除を試みているが、三機と連絡すら取れない。
「どうなってる」
「それが、パスワードを要求されてるんです」
びっくりした様子でこちらを見た。でもどうにもならないと。やみくもに入れるわけにもいくまい。俺の管轄外だ。他の連中もしかりだ。サイバー犯罪課のやつもいたが、わざわざパスワードを要求するようにした理由がわからないと、どうにもできないとお手上げ状態だ。まさか俺なのか。いつ俺がこの件の責任者になったんだ。怒りを覚えつつ、俺はケイに電話をかけた。
「あんた、パスワード聞いてないのか?」
俺が叫ぶと、ケイが言った。
「ええ?なんで俺が」
「あいつが言ってたこと、思い出せよ」
「そんなこと言われたって」
俺は馬鹿なのだ。勘弁してくれ。なんだって?記憶をたどってみる。思い出せないことがこんなに苦しいなんて。ああ。ケイによるとパスワードはおそらく二回までは間違っても大丈夫だろうということだった。三回目でアウト。
「もしもし」
アニーだ。空港がパニックになって飛行機が飛ぶのをみたらしい。
「なんだよ、こっちはまだ話せない」
「どうなってんだ?あいつは無事なのか」
ちっ。俺を殺すなら殺してくれ。
最後だからついでに言っておくか。
「そういえばお前に伝言があった」
「は?」
「約束は守るとかなんとか、いや、約束を忘れないでくれ、だったかな」
俺にも覚えていろと。どういうことだ? だったらパスワードはこれだと言っておけばいいじゃないか。もしうまくいかなかった場合、まったく意味のないものになるのが怖くて言わなかったのだろうか。期待させないように。こんなときまでスリルを、俺にも味合わせてくれるのか。
「おい、約束ってなんだ」
「約束?そりゃ言いたくないが。」
もう時間が無い。カウントダウンが始まっている。あと五分しかないのだ。三機から燃料が放出されている。自力で着陸すればいいだけなのだが、おそらく操縦不能になっている可能性が高い。こんなことをアニーに言ってもしょうがない。
「教えろ」
「俺の子供を産むという約束だ」
「子供か」
CHILD キーを叩く。ダメだ。子供たち? いや違うだろ。ダメだ。なんなのだ。あと二回。
なんで俺なのだ。だがここにいる誰にも答えられない。彼女の最後の言葉を思い出した。
「簡単でしょ。」
EASY か?
「おい、easyとpromise だとどっちだ?」
こいつにも責任をとらせてやる。
「そりゃお前だけに言うわけないからpromiseだろうが」
スマホを投げ捨ててPROMISE と叩いた。カウントダウンが止まった。
あの事件から半年が過ぎた。やつらの消息は不明、おそらくあの無法地帯の国に拠点を構えていたのだろう。外交があまりないから交渉の手立ても少ないが、必ず助けにいく。仕事の傍ら、仲間の協力も得ながら機会をうかがっている状態だ。仲間と言えば、ケイは医者を辞めて、どうやってもぐりこんだかは不明だが、日本人になって俺のいる部署に警官として赴任してきた。今度は本名のケイで。本気度がうかがえる。もしかしたら彼女以上に能力者なのかもしれない。そうでもなければこんな自由自在に潜入などできるわけがない。
「わかってると思うが、仮に救出できたとしてもあいつはアニーのものなんだぜ」
「別に俺はもうあいつと結婚したいとか考えてるわけじゃないよ」
この嘘つきめ。
「俺にはまだ古本屋を殺すという使命が残ってるだけだ」
「だろうな」
俺はこっちの問題も抱えているわけだ。復讐劇に加担するわけにはいかない。アニーはいきなり二児の保護者になって、悪事も働けずに真面目に仕事をしているようだ。こっちは結果オーライというところか。あいつも律儀な奴だ。ジョシュアはこの事件にユキが関わっていることも知らない。日本へ帰ったと思っているらしいが、珍しく新しい彼女も作らず、浮いた話もない。それはそれで、また一波乱ありそうだが、まずは彼女を助けなければ。
その無法地帯の国の端に古本屋の拠点があった。その広大な敷地の真ん中にある塔のような建物の最上部に私はいた。こんな出入口のないところに監禁されていては、どれくらいの日数がたったのかもわからない。
「ラプンツェルじゃあるまいし」
つぶやくと返事が返ってきた。
「じゃあ僕はさしずめあのカメレオンみたいなもんだね」
「名前なんだっけカメレオン」
「忘れた」
貴族の跡取りにしては本当に冷静な子供だ。
「ルイ。家族が恋しくないの」
「別に。」
クールだよね。でも彼がいるおかげで正気でいられるような気がする。なんとか親元へ帰してあげたい。変なことに巻き込まれないうちに。もう巻き込まれてはいるのだけどね。
気がついたらここにいた。古本屋が丁寧な言葉遣いをやめていて、私を責め立ててくるところをみると、どうやら三機の落下は免れたようだった。
サムがデスクの下に銃を貼り付けてくれていたおかげで男二人をやれたが、銃を持って出ていくとまたこっちが撃たれかねないので手放した。車の中の銃を手にもって戻ったが、それは秒で叩き落とされてしまった。もう疲れ切っていたのだからしょうがなかった。
「おまえの父親が作ったコードを知っているのはお前だけ。お前は最後までそれをみていた。」
「おまえの父親が、コードを知りたければ殺せと言ったので殺した、だがコードも消えた。」
「おまえは母親も目の前で殺され、記憶をなくしたお前を連れて帰ったのは私だ。」
「お前の父親がうえつけた記憶を差し出すまでは殺さない。」
そういって私の腹の弾を取り出して怪我の手当をした。
要はここからでも世界中の飛行機やらを落とせるようにしろということらしいが、そうそう簡単にできるはずもない。父親という人だって数年かかったらしいじゃないか。思い出せるわけもなく、そのうちしびれを切らしたやつが、また極限状態を作ろうとするかもしれない。
はあ。どうしたものか。今度はルイが私のコードを覚える日がくるのだろうか。今も後ろでじっと私をみている。他にやることもないからしょうがないか。
でもルイは古本屋のことを気に入っているようだ。それが少々気になるところだ。私みたいな人生を歩んでほしくない。君はいいとこのご子息なのだから。
「家に帰った方が良いよ。」
そう言うたびにふてくされる。もしかしたら私を監視する役目をすでに与えられたのか。面倒くさいことにならなきゃいいけど。それにしても明日の天気すらわからない毎日をいつまで過ごせばいいのか、必死に何かを完成させてさっさと殺された方がマシなのかもしれない。その時が最後のチャンスだ。
幸か不幸か、ルイがいるおかげで誘拐事件は終わっていないはず。この国へ引き渡し要請もしていることだろう。少なくともルイだけでも帰国させたい。ある意味、彼はまだ人質なのだ。ルイさえいなければ違った行動ができたはずなのに。飽きて眠ってしまった彼に毛布をかけた。いざというとき、この子は誰の味方になるのだろう。どっちを選ぶか、想像できない。
でも結果はあっさりしていた。
ここはもう秋だ。逃げた時に暑すぎても寒すぎても体力が消耗するだろうから今がチャンスだった。だが、ルイに計画を話してしまった。当然だ。彼を置いて行くわけにはいかないし、協力してくれないと成功できるはずもない。どうやって彼がボスに報告したのか。その日からルイは古本屋と一緒にいるようになり、私は一人でこの塔に残された。
やはり気力が持たない。薬漬けにされた中毒者のような堕落した生活が始まった。守るものがないというのはこういう感じなのだろう。前回はどうやって立ち直ったのだっけ。前回って。
もう誰も私のことなんか覚えていないだろう。交渉が成立したとしてもルイが無理やり戻されるだけ。彼が自らそのへんの園児と一緒に出掛けた理由は、すでに古本屋とコンタクトを取っていたからかもしれない。そもそも、六歳のガキが私のコードを理解している時点で勝負がついていた。はあ。
ある意味、やっと自由になれたのかもしれない。そう思って地上をぼんやりと眺めていた。やはりここはそんなに高所ではない。落ちたところで知れている。逆に飛び降りて逃げることも可能かもしれないが。足の骨くらい折れるかな。どっちみち悲惨だ。
良く見ると、下の方がいつもより騒がしい。久しぶりに目に注力して遠くの建物に焦点をあてた。
「え?」
何やら銃撃戦が始まっている。人の動きをみようと身を乗り出したところで、突然部屋に入ってきた連中によって中に引きずり込まれた。古本屋。
「ちょっと大人しくしていてください」
そう言って近寄って来たため覚悟を決めて脇の連中を張り倒した。片方が怯んだのでライフルを奪ってもう片方を殴った。二人くらいならなんとかなった。古本屋は無視して、さらに部屋に入ってきた男をライフルで撃った。古本屋が手に持っていた注射器を捨てて銃を構えた。たぶん私の方が先だ。
「おまえ、私を殺ったらお前を守る者がいなくなるぞ」
「大丈夫、私も死ぬから」
そういって引き金を引いた。なんだろう。この人は私を殺せない。ルイがいるのに。ルイはどこ?
「ルイは?」
口から血を吐いている古本屋が何か言おうとしたが、もう言葉になっていなかった。
ルイを捜さないと。一緒じゃなかったのか。ついでに悪の芽は摘んでしまいたかったのに。私の仕事ではないか。ふらふらとまたテラスへ向かい、下をみた。この国の警察がとうとう動いたのだろうか。案外ここの連中も大人数だ。それからほぼ無心でドンパチしているのを眺めていた。どうせ私も殺される。その時、懐かしい声が聞こえた気がした。
「え?」
もう一度気力を振り絞ってみてみると、サムらしき人が戦っているようにみえた。私はライフルを構えて、スコープで彼をみた。
「嘘でしょ」
「何やってんの?」危ないでしょ。今にも撃たれそうになっている彼をみて私は狙いを定めた。三人の頭を撃ちぬいた。私は傍に倒れている男が弾を持っていないか確認した。あと一発しかない。なんで。
壁にもたれかかって、その弾は自分のために取っておくことにして目を閉じた。さっき古本屋の弾がどこかにあたったのだろう。いつの間にか自分の脇に血だまりが出来ていた。
いよいよだ。この日がきた。やっと許可が降りてかの国へ乗り込むことができる。
必ずいるはずだと確信している。身代金が必要になった時はアニーが出すと言ってくれた。俺とケイは同じ飛行機で向かった。他に仲間はいない。あとは現地の警察と協力しなければならない。こんなよくわからないミッションに他の仲間を連れて行くわけにはいかない。
あの貴族の息子のルイは、調べれば調べるほど胡散臭いガキだった。妙に大人びていて親も恐怖を抱いているほどだった。サイコパスの素質があるのだろう。飼い犬を殺したこともあるらしい。だからガキの両親は捜査に非協力的だった。もしかしたらガキ自ら事件に首を突っ込んだのかもしれない。だが、そう考えると彼女は大丈夫なのか不安がよぎる。所詮六歳のガキに何ができる。大丈夫だ。
現地の警察も、近年勢力を増してきているその組織をここらへんで排除したかったということだった。到着した日、状況を確認したかったが敷地内がどうなっているかは当局もまったく把握できていなかった。その夜は警官の一人とケイと三人で食事をした。何故かイギリスの食事よりも旨いことにケイが大うけしていた。そいつはダンと名乗った。他の十人ほどは、さっき紹介はされたが覚えきれていない。ケイが覚えただろうから当日の相手は任せた。ダンには人質二人には危害を加えないように再度頼んだ。たとえあっちの仲間のように見えたとしても。
「オーケー。一人はチビで一人は女だろ。大丈夫だ」
ダンはそう言ってくれたが、彼女がどんな姿をしているかも想像できなかった。翌日、白昼堂々、乗り込んだ。もはや戦争だ。向こうの方が長けているのかもしれないが、そんなことは言っていられない。必死で先を進んだ。どこが本拠地かもわからない。ボスはどこにいる?そして意外と弾は相当に飛んできた。防弾チョッキ程度では意味がなかったかもしれない。
「やられる」
そう覚悟したとき、銃声と共に目の前に迫った敵が倒れた。二人、三人。一気に倒れて道が開けた。誰かが援護している。どこだ?どこから?俺は周りをみたが遠くに塔が見えただけだった。ケイが水を得た魚のように打ちまくっているのをみて、あいつは自分が警官だということを忘れてやしないか心配になった。
「あの塔が怪しいな」
ケイが言ったが、まさかあそこにユキがいるとは思えない。あんなところから頭を撃ちぬけるのか。違うだろう。と俺は首を横に振った。
「絶対、あそこだって。この距離はあいつの得意分野だ」
それを聞いて、反論するのを諦めケイに従った。どうやらそろそろ終わりそうだ。ここの警察も腐っても警察なのだなとダンをみながら感心した。
「ここは任せろ」
ダンに言われて俺とケイは塔へ向かった。
「どうなってんだ」
入口がみあたらない。なるほど、確かに閉じ込めるに適した造りなわけだ。
「やっぱり無いな。上に行けば下り方くらいわかるかも」
そう言ってケイが塔をよじ登り始めた。おいおい。少し様子を見ていたが、登らないわけにはいかない。上にはまだ敵がいる可能性もある。随分静かにみえるが。本当にあいつはいるのだろうか。
銃声がしかなくなった。どっちが勝ったのだろう。サムたちが負けることは考えにくい。この集団も終わりだろうな。ここが見つかるわけがないからそろそろ私も終わりにしよう。この半年でいろいろ考えることは出来た。もう満足だ。親のことも知ることができた。
ライフルに手を伸ばした。ライフルが重くて持ち上がらない。こんなものに頼らなくてもそのうち死ねるだろう。手を離してまた目を閉じた。
「おい」
ああ誰かが呼んでる。サム?どちらかと言うとケイ?というか日本語だ。目を開けるとケイがいた。同時にどこかから人の息遣いが聞こえたかと思ったら、誰かがライフルの上に落ちてきた。サムだった。
「やあ」
二人とも久しぶり。でも再会を喜んでいる時間はもうないかもしれない。サムが下りる術をさがしているうちに、ケイが私の脇腹に手をあてた。
「誰にやられたんだ?」
「あいつ」
そうだ、言わなければ。私が指さした方に古本屋が倒れている。
「ごめん。私が一人で復讐しちゃった」
もうこれで今までのことは忘れよう。そう言いたかったのだが、言葉が出ていなかった。
ケイは聞いているのか無視しているのか、腹部の出血を止めるのに必死だった。どうでもいいのに。これでぐっすり眠れる。
「おい」
この部屋の出入口の向こう側に、下に下りるルートがあった。ただし、また開閉にパスワードが必要だった。
ユキのところへ戻ると、ケイが冷静さを欠いているのがわかった。
「早く病院に運ばないと」
「パスワードがないと降りられん」
「またパスワードかよ」
俺がこいつを運ぶからと、ケイをそっちに行かせた。あいつなら簡単に開けられるだろう。ここにはもう二度と来ないだろうから、可能な限り記憶に留めておきたかった。ガキが見当たらないが捜す必要もないだろう。もう意識のないユキを抱えてケイのところへ向かった。
「どうだ」
ああ、ケイはそう言いながら何度か解除を試みているようだった。
手ぶらの状態でパスワードなんかわかるわけがない。やつが生きているならまだしも。
「壊した方が早いんじゃないか」
俺は部屋に落ちていたハンマーのようなもので破壊してみた。エレベーターの扉が開いた。ケイが苦笑いしながら先に乗り込んだ。大丈夫そうだ。途中には何もないただの塔だった。ドアが開いたので外に出ると、すぐに扉が閉まった。その壁は外からはまったくドアには見えず、しかし小さな石のボタンはあった。
下に向かったらダンが救急車を手配してくれていた。俺たちと入れ替わりに現地警察の人間がエレベーターに乗り込んで上がっていった。後で状況報告くらいきけるかもしれない。俺たちは病院へ急いだ。
ここの病院がどんなだか、多少の不安はあるが医者ともいえるケイもいるし大丈夫だろう。ケイは相当不安なのだろうか。いまだに動揺がみてとれる。だが俺はこいつが死ぬなんて想像もしていない。そっと頭に手をふれた。あのときの傷がうっすらと残っていた。俺のせいで出来た傷だ。今くらい触れていたって誰も文句言うまい。
「任せたぞ」
二人を病院内に見送ってから、俺は電話をかけた。アニーに状況を説明した。自国の警察よりも先に関係者に電話をするなんて俺も人が良すぎるかもしれない。
「恩に着る」
そういってアニーは言葉を無くしていた。
「これで、貸し借りなしだ。フェアに戻る」
そう言ってみると、やっと返事をした。
「夫婦だぞ? ハンデがありすぎてすまんな」
「名ばかりの仮夫婦だろうが」
「俺たちは約束もしている」
「はいはい。冗談だ」
正直、冗談を言っている場合ではないのだが余計な心配はさせない方が良いと思った。死にはしないだろうが、彼女の中身はこの半年でどう変わっていてもおかしくない。洗脳されているかもしれないし、また記憶が消えている可能性もある。塔で発見したときも俺を認識していたかどうか。名前を呼ぶこともなかった。
彼女は華奢だがタフだった。予想通り、翌日には三人で出国できた。あの国は危なっかし過ぎた。ダンはいい奴だったが他の連中はただのゴロツキにしかみえなかった。近くの友好国に一度入国し、休養することにした。3人とも早く帰国したかったが、そういう段取りだ。彼女はまだぐったりしていたが、歩行はできるし、ホテルに着くや否やシャワーを浴びた様だった。ケイが手当するから大丈夫だろう。俺から見るとあの二人は単なる幼馴染にしか見えなかった。
「なんだかんだ仲が良いんだな」
平気で腹を見せていられるのもケイが医者だからだろうか。
「なんだかんだ体の相性はいいからな」
ふふっと笑ってケイが言うので俺は目を見開いた。
「ちょっと、変なこと言うのやめてよ」
彼女が口を挟む。
「変なことって」
悲しそうにケイに言われて「しまった」的な表情をした彼女をみて、どうやら俺だけがこいつのことを知らないのだと確信した。
「おまえら、そういう関係だったんか」
苛立ちと共に言ってみたが、口をそろえてそこは否定してきた。どうなんっているんだ。まあ過去の話か。アニーが聞いても驚かないだろうよ。
思った以上に動揺していない自分が不思議だった。
「身体がなまっちゃって」
動こうとする私を二人が静止するので退屈な滞在となった。
ルイについては、遺体もみつからないらしい。逃げるにしても一人でどこに行くというのだろう。と、サムたちは他にも逃げたやつがいると思っているが、あの子はおそらく一人のほうが生きやすいはずだ。今頃どこかの家にうまいこと入り込んでいそうだ。
「あの子は賢すぎるから大丈夫だと思う」
そういってとりあえずは話をそらした。
二人には何度もお礼を言ってはいるが、どうしてもアニーのことが聞けなかった。私から聞けば話してくれるのだろうけど、私はいっそのことイギリスに帰らずに日本に帰れるか考えていた。
「私の立ち位置って、今どんな感じなの?」
思い切ってサムに聞いてみた。私たちはこのホテルで同じ部屋にいる。もはや家族を通り越してそれ以上の関係のような気がしている。ケイと私は医者と患者の関係だし、サムは同士だ。
二人がどう思ってるかは知らないけど、アニーは、やはり私にとって特別なのだろうか。勝手に巻き込まれて、一番の被害者。申し訳なくて、合わす顔も無いのが本音だ。
「立ち位置って、イギリスにいるヤクザの妻だろ」
「捜索願いも出てるしな」
ケイが割ってきた。
「そうだ、ケイは何してんの」
「やっと俺の話題か」
ケイは得意げに医者をやめてから行くえをくらまし、ケイとしてサムの部下になったのだと話し始めた。なるほど。今は警官なのね。
「あなた、もう目的は果たしたのだから日本へ帰れば」
「おまえと一緒なら帰ってもいい」
彼がそう言ったので、つい口にしてしまった。
「私も日本へ帰れるかな」
二人が「え」という顔をして私を見た。
「なんで。あいつとの約束は」
サムが言うので、やっとアニーの話になった。彼は私が押しつけた子ども二人の世話を焼いて過ごしているらしい。養子にするのに私の同意を待っているところだそうだ。
私がいきなり二児の親?まさか。でも現に彼は子どもと暮らしている。なんか申し訳なくて本当にどうしたら良いのかわからない。今が落ち着いているなら。私が戻ることでまた面倒なことが起こるかもしれない。三人の中に入っていけるのかも不安だ。半年は長いのだ。
私でさえルイにある種の愛?母性?が生まれ始めたのだから、彼にとって二人の子供はもう私以上になっているはずだ。こわい。私より長い期間を過ごしているわけだから当然だろう。会いたいけど会いたくない。
それに、一度日本に帰っておきたかった。住んでいたマンションも借りたままだし、もったいないだけだ。それと、こんな傷だらけの状態で会いたくない。なんで会いたくないのだろう。何が一番の原因なのだろう。
黙って考えているとサムが申し訳無さそうに言った。
「どこに帰るにしてもあいつに会ってからだろうな」
それはそうだけど。
その日は久しぶりにぐっすり眠ったが、朝にはまた夢を見た。今度は家族の夢。父と母と私。これは現実だったのだろうか。父の仕事を後ろから見ている私をその後ろから眺めている母。三人で、画面をみながら「あーだこーだ」言っている夢。
私、あんなに幼いのにわかっているのだろうか。仕事を理解していた自分がルイに見えた。ルイは自分から古本屋を選んだけど、私は両親を殺されて古本屋に拾われた。経緯は違うけど末路は同じなのだろうか。だとしたら私はどうすれば。幸せになりたいと思うのは身勝手なのかもしれないがルイは今、幸せだろうか。
ふっと起き上がると、無意識のうちにシャワーを浴びた。なぜ私はシャワー好きの潔癖なのか、その理由がなんとなくわかってきた気がした。その夢の続きは、両親が殺されたときの銃で打ち抜かれたその顔と、同時に飛んできた血しぶきを浴びて血まみれになった自分が、殺されもせずに立ち尽くしているところだった。いくら洗い流しても体中の赤が消えることがない、という恐ろしい夢。
「ああ、汚い」
目星をつけていた老夫婦のところに転がり込んだのはいいけど、ボスのところよりもさらに不衛生な家だった。でも生きていくためにはやむを得ない。しばらくはここで我慢しよう。僕はそう決めてかび臭い布団にもぐりこんだ。子供のいない夫婦。貧乏だけど食べていけるくらいのこの国では一般家庭だ。ちょっと人里離れたところに孤立しているので僕の存在も当分気づかれないと思う。
ユキはなんでボスを殺っちゃったのだろう。面白いことが出来たのに。せっかくあの毒親たちから解放されてボスのところにこられたのに。僕の邪魔をして。許さない。子供扱いされるのも気に食わない。周りが馬鹿すぎてイライラするのを隠して精一杯、幼児を演じてきたつもりなのに、僕を異常とみなした。
やっと自由になれたのに。イギリスで良かったことといえば清潔さだけだ。ここ、汚いなぁ。早く一人で歩いていても怪しまれないくらい大きくなりたい。ボスに言われたことを守って、いつかやる。ワクワクした思いのまま無事に寝ることが出来た。
翌朝、私たち三人はイギリスに戻るために空港へ向かった。結局、一度戻ってからサムが手続きをする間、空港近くの病院に私は入院する。いろいろガタがきているので一応検査した方が良いとのケイの意見だった。その後、日本へ帰ろうと心で決めた。やはりアニーにも説明しなければ。迷惑をかけたのは事実だし。
そこでまたルイの顔がよぎる。私さえこの世に存在しなければ、何も起こらなかった話だ。でもルイに同じ道を歩んでほしくない。
「ああもう」
私はつぶやいて、あの塔周辺の集落へ向かってくれるように頼んだ。
二人が聞き逃したかのような反応をするので、あの国へ戻ってルイを捜索したいと頼んだ。サムはため息をついた。
「正直、あの子の親はあの子の帰還を望んじゃいないよ」
「わかってる。でもほっておいたらまた同じことが」
やれやれとまたため息をついて、サムは電話をかけた。
「ダンか。あの子供は見つかった?」
「あの塔の周辺の集落で目立たない家が無いか調べてくれないか」
「どこかの家庭に転がり込んだ可能性がある」
「頼む」
そう言って通話を終えた。一応、やってくれるらしい。が、その言葉はおそらく嘘だ。
「悪いがもうあの国に入るのは危険だ。許可もないからな」
任せるしかないか。ダンという警官に。
諦めて空港に入った。便の時間がギリギリで結局三人走って飛び乗ったので機内では疲れて寝てしまった。
離陸したころ、ケイは目を開けた。
俺は日本へ帰るべきなんだろうか。イギリスに留まっても辛いだけだ。俺はサムとは違う、あんなふうに割り切れない。命の恩人だからか?俺は生死を共にした仲だ。愛し合ったこともある。あいつが日本へ帰るなら一緒に帰るが、残るなら俺は、どうしたらいいのか。
こんなことなら俺があの時、消えていれば良かった。あの古本屋に俺たちの見分けが完璧に出来ていたとは思えなかった。近くにいて守っているだけでも良いのか。もしかしたらチャンスはあるのかもしれないが、あいつにとって俺はただの幼馴染でしかないのだから致命的だ。
いや、ただの医者か。俺は何者なのだ。
横で眠っているこいつをみると、若干の苛立ちが襲いかかる。こんな安心しきって寝るやつがあるかよ。はあ。到着したらどうせあいつが来ているから、今度こそ俺の役目は終わりだ。
数時間のフライトでうたた寝程度でついてしまった。日本ではないからさほど感動はしないが、とにかく戻ってこられた。ゲートを出ると、アニーがいた。いてくれた。来てくれた。
両手を広げて待っているのでそっと抱きしめてくれるのかと思ったら、いきなり抱きかかえられてしまった。まだ言葉は交わさない。でもこの安心感は彼にしかないものだと確信できた。私たちの後ろでサムとケイがそのまま立ち尽くしていて、もうそこからはついてこなかった。
「俺たちのお役目も終了だな」
俺は名残惜しそうに言った。ケイが何かぶつくさ言い始めた。
「俺はあいつと日本に帰るから、まだまだ面倒みなきゃならないけどな」
「おまえ、負け惜しみ言うなよ」
遠くからアニーと目括せして、俺たちは自分の持ち場に戻った。
病院でひとしきりの検査を受け、彼女が個室のベッドに横たわったのを確認して、俺はやっと安堵のため息をつけた。もうこれからは俺の妻として家族として生きてくれ。この俺と結婚したのだ。ヘタレがどう動いてくるか知らんが、俺には自信がある。
こいつに話さなくては。なんちゃらレコードの誰だったか、デビューしないかだなんて笑える話だが一応、言っておかないと後々が面倒だからな。
半年ぶりに再会。半年も離れていて平気だったのも子どもたちのおかげだろうな。きっとこいつにも直ぐに懐くだろう。無垢な動物には好かれるからな。
賑やかになりそうだ。だがサムが言っていたが日本に帰るだと?そんなことは必要ない。目覚めたら話すことが山ほどあるな。家に帰る前に十分に話し合っておかなければ。
起きたらアニーが横に寝ていた。
イギリスに帰って来たのだなという実感が湧いてきた。ケイとサムはどうしたのだろう。久しぶりに自宅に戻って休めていればいいけど。もぞもぞと起き上がろうと動いたら、やはり起こしてしまった。
「あ、ごめん」
「俺は寝てないから気にするな」
え、寝てないの。余計に罪悪感がよぎる。でもとりあえずシャワーね。何から話せばいいのかわからなくて緊張する。半年間、どうやって過ごしていたのか聞きたい。子供たちのことも。私のことはどこまで話すべきだろうか。でも最初に言うべきことは一度日本へ帰りたいということだけだ。まずはその話。
シャワーから出ると、先生が待っていた。そういえばケイはもう医者ではない。いつもならケイが現れるのにね。今思い出しても、なんで気づかなかったのかと思うくらいだ。あれは完全にケイだったのに。
そしてお昼まではすることが無くなった。時間はそれなりにたっぷりあるということだ。
「あのさ」
私がちょっと申し訳なさそうに言い始めようとするのをアニーは遮ってまくし立ててきた。
「お前のマンションは解約しておいた。荷物はとりあえずうちに運ぶように手配したからそのうち届くだろう。俺の弁護士が日本へ行って手続きしてきたから心配ない。あ、俺はお前の夫だから代理の代理って感じだな。他に日本に行く理由があるか?温泉でも行くか?二人で。それはありだな」
これ以上見つめ合っていると流されそうになるじゃないの。この人は本当に目をそらさない人。そこが好きなところでもある。いつも私をみてくれている。
「えっと、ありがとう。いろいろ」
「いいんだよ。」
私の話なんかしてもしょうがないけど、簡単に両親のことは話しておいた。おそらく大体の記憶は戻っているはずだということも。アニーの方は私が去ったあと、一か月半後くらいにギルバートの手続きがやっと済んで、彼はやってきたらしい。その時、私がいないことにショックをうけていたが、そこは子供なのですぐに順応してくれたそうだ。それに、アンがすでに居たので二人は兄弟のようだと。そう話すアニーがすっかり父親みたいで驚いてしまった。
「だから養子にしたいのね」
私が困惑しながら聞くと、アニーは、
「そう思ったんだが、ボブたちには反対されてる」
へぇ。なんでだろ。金持ちが何人も養子をとるのは珍しいことじゃないのに。
「まさか、後継ぎ問題で揉めたりしそうだから?」
なんて言ってみたら、そうではないらしい。アンはあの国で古本屋にさらわれたらしかった。つまり、故郷に親はいる。いつか返してやった方が良いのではというのが彼らの意見だった。
確かにそれはそうだけど。半年も過ごしたらもう手放せないのが普通の感覚よね。
ギルバートも、結局母親は直接加担したわけではなく、彼が望めば親元に返す必要もでてくるとのこと。それは悩ましい話だ。
「とにかく、まだ事を進めるのは速すぎるかもしれん」
つまり、今は単なる保護者という立ち位置だそうだ。
「まあ書類上の関係なんてどうでもいいけどね」
実際、私たちだって書類上の・・・と言いかけて「しっ」っとアニーに口をふさがれた。久しぶりに好きな人とキスした感覚だった。
「約束を果たしに戻って来たんだから頼むよ」
翌日、そう言って病院を後にした。車の前でボブが泣きながら待っていた。私は素直に嬉しくなってボブに飛びついた。
「本当に良かったです。おかえりなさい」
そう言ってハグしてくれた。ボブは瞬間的にボスの殺意を感じてさっと私から離れた。
「なんだよ。俺と再会した時と全然違うじゃないか」
「は?疲れてたから」
「そうですよ、別にいいじゃないですか、ハグくらい」
ボブも反論した。
車に乗り込んでからしばらくは三人で夕飯を何にするかで揉めていた。結局、私が優先され、餃子を作ってもらうことにした。
「私は疲れてるから手伝わないよ、今日は」
そう言って議論から抜けてアニーにもたれかかって目を閉じた。そうだ、ルイのことも彼には話しておこう。気がかりなのだということを。それに、アンのことも。本当に誘拐なのか、親に売られたのかでは対処の仕方は違ってくる。ああ、またあの二人にお願いしなきゃいけないのか。もう迷惑はかけたくないから自分で調べよう。
その日の夜はかなり賑やかというか騒がしいディナーになった。皆が喜んでくれて幸せだった。私にも生きる意味があっていいのよね。誰に言っているのかもわからないけど、これでいいのだと思えた夜だった。
翌朝、私は疲れがたまっていたのか自分で起きることがなく、昼前くらいになってアニーに起こされるまでぐっすり眠ってしまった。子供たちはすでに学校へ出かけていた。私は母親らしいことなんてするつもりはないけど、朝食くらいは一緒に食べないとね。アニーとランチをしているときに懐かしい名前が出てきた。彼がデビューだのなんだの、変な話をしだしたからだ。
「レイって、結局どうなったの」
と聞いてみると、どうやら彼は三次予選くらいで落ちたらしい。そこにテレビ局から連絡がきて、私と二人で一曲出してみないかという話だった。ジョシュアが乗り気だったようだ。だからアニーも気に入らないし、私も正直まったく興味が無かった。そんなことよりもルイを記憶から消したいのに。いつもあの子が頭をよぎってしまう。
午後にサムがきてダンからの状況を教えてくれたが、あの界隈には把握しきれていない人が点在していて、しらみつぶしに当たってはいるが仮にそこにいたとしても本人が否定すればどうにもならないとのことだった。彼が大きくなったころに私が生きていれば、また対峙することはできるだろう。それも運命だと思うことにして、忘れようと誓った。
「デビューしないんだったらいっそのことケイみたいに警官にでもなるか」
サムが冗談ぽく言ってきた。私が返事をする前にアニーが遮った。
「彼女はやることがたくさんあるのだから無理だ」
「でもあいつ、ケイは結構楽しんでるぞ」
笑いながら言うので、私は安心した。ケイは居場所を見つけたね。悪事を働くよりは断然マシだ。
「私はしばらくここで大人しくしてるよ。さっきみたらまた日本から依頼がきてたから」
午後は宣言通り、ホームページ作成に時間を費やした。子供たちが帰ってくるまでだ。パソコンを閉じる前に、なんの気なしに口座をチェックしたら、一億円ちかくの額の入金があった。
「え」
一瞬、冷静さを欠いてのけぞった。相手を探っていくとどうやら誰かの遺産が舞い込んできたらしい。古本屋だ。他に心当たりもない。そこで初めてやつが本当に死んだのだと実感した。誰が手続きをしたのだろう。私の承諾もなくこんなことができる人がいるのだろうか。まさか、記憶から消したはずの子がよぎる。奴の財産はあの国か日本かに没収されるはずだと思っていたのに。
「ただいま」
2人が帰ってきた。私は階下に行き出迎えた。二人はまるで半年前から私と暮らしていたかのような態度で学校であったことを報告してくれた。アンはともかくギルバートがこんなに素直な子だったとは。アニーが二人の父親になりたがったのもわかる気がした。もう私は約束を無視しても大丈夫なのかもしれない。
二人が宿題をやっている間に、私はもう一度パソコンを開き、日本の弁護士に連絡を取った。一億円の扱いについて相談し、それには手を付けずにもしもの時にはアニーを相続人とした。夫婦だから当然だ。他にはアンとギルバート、どこにいるかもわからないルイの名前も伝えておいた。それから、ふと思い立ってパン屋のスミスさんに働かせてほしいと連絡した。彼はびっくりしていたが、快くオーケーしてくれた。好きな時に来ると良いと。
夕飯の支度をしようとパソコンを閉じかけた時、1件のメール着信に気づいた。
「Secondhand」というアドレスをみて瞬間的にルイからだとわかった。
ボスがあなたにも支払いをしろと言っていたのでそうしました。クソみたいな人生にピリオドを打ってくれたお礼だそうです。
私は即座に返信した。だがもう届かなかった。追いかけたがあの国から発信されたかどうかも確証は得られなかった。はあ。とりあえず生きていることはわかった。私はキッチンへ向かった。同じ年くらいの二人を見ているとなんて幼いのだろうと錯覚するが、これが本来の子供なのだ。今日はボブもいないので、というかボブたちには休暇とかの概念はあるのだろうか。ヤクザにはないけど、きっとないのだろう。いつも何を食べているか聞いて、似たような料理をしてみた。どこか日本料理的な私の創作物を見て目を丸くしていたが、アニーが帰宅するとあっという間に平らげてくれたので安堵した。
「お前はいったい、何が出来ないんだ?」
とアニーが聞いてきた。泳げないことだけは伝えておいた。実際は泳げるが、水着に着替えて泳ぐとかそういうのは、潔癖症の私には出来ないという意味だ。今度みんなで海でも行くか。と提案してきたが「ノー」と即答した。泳がないって言っているでしょ。温泉にはかろうじて入れますよ。
たわいもない平和な会話。こういうのが家族なのだろうか。経験が無いのでわからなかったがそうなのだろう。空気が読めなくて申し訳ないのを承知で話題を変えた。
「ルイを連れ戻しに行こうかと思ってるのだけど」
それを聞いたアニーは、頭を抱えてたまま返事をしてくれない。でも目は合わせたまま、じっとお互い黙っていた。
やっぱりそうきたか。あの国を出国する際もやけに執着していたらしい。サムから聞いている。ほっておけない気持ちはわかるが、危険すぎて不可能だろう。それにそいつの親であるあの貴族連中は、捜しているフリをしているようで実際は何もしていない。今回のことで警察から報告を受けて安堵していたくらいだからな。
「連れ戻したらまたうちで引き取るとでも?」
やっと言葉が出てきた。
「そう、それがいいのだけど」
彼女は自信なさげに答えた。子供一人増えるくらいどうにでもなるが、本人の意思に反して奪還しに行くというのは無理があるだろう。
「気持ちはわかるが、もう生きているかもわからないんだぞ」
「生きてはいる。連絡があったから」
「は?」
俺は口に入れた、良くわからないがわりと旨い肉料理を喉に詰まらせるところだった。
そんなことより、俺たちの幸せを考えてくれよ。無理な願いなのだろうか。
「ごめん」
私は思わず謝った。ルイからメールが来たことを打ち明けた。だから生きていると。迎えに来てくれというサインなのかもしれないじゃない。とりあえず明日、サムたちに相談してみるということで食事は終わった。
子供たちが自室へ入ると、アニーがカジノの状況を少し話してくれた。今のところ順調にいっているらしい。そして悪夢もみることなく眠りについた。もちろん約束は忘れていない。彼の優しさは変わらない。いつか彼と本当の家族になりたいと心から思うこともあるのに、どこかに不安が混ざっていた。
「な、できてるだろ」
翌日、わざわざサムとケイがきてくれて、状況確認とこれからどうすべきか話し合った。その時、アニーがこそっと耳打ちするのでやっと気づいたのだが、二人の親密度が半端ないので驚いた。まあ、落ち着くべきところに落ち着いたということだ。
でもそうなると、二人にこれ以上迷惑はかけたくない。私は早々に諦めたふりをしてルイ奪還計画を頓挫させた。
「おまえ、一人で何かしようと思うなよ」
アニーにくぎを刺された。
「でも、あの国に子供を捜しに行くくらいのことはできるよね」
「完全に閉鎖された国ってわけではないのだし」
「新婚旅行、あそこにしない?」
言ってみるものだ。新婚旅行という響きにまんざらでもない様子のアニーが、「考えてみる」と言ったのだ。
「確かに観光に行く体なら可能だな」
そう言って、スケジュールをチェックしてくれた。ボブは大反対したが、自分も行くならと言い始めたのでそこは却下した。ボブには子供たちを守る義務があるということにした。
似たもの夫婦と言われたらそれまでだけど、決めたら行動が早いのがアニーの良いところだと思う。早速、渡航の許可を申請してくれた。あくまでも観光が目的だ。現地でどうにかダンと連絡をとって協力をしてもらおうか。とにかく見て見ぬふりをしてもらおうか。
私たちが行くことをルイに事前に知らせておくことができれば、おそらく向こうからやってくるだろう。ジョシュアに連絡して何かのついでに「友人があの国へ旅行にいくらしい」的な発言をしてほしいと頼んだ。
「久しぶりに連絡してくれたかと思ったらそんなことで」
と彼は不満そうにつぶやいたが引き受けてくれた。いやいや、あなたの喉を触るためだけにイギリスに来た私はどうなるのよ。
そしてその日の夜、トークイベントで行ってみたい国の話題の際、自分も行きたかったなあという不満と共に「友人」が今度行くらしいという情報をさらりと流してくれた。
一時、検索ランキングでその国がランクインしたが、たいていの人の興味は一瞬で、あっという間に消えた。私はそこに「Secondhand」としてコメントを残した。本屋で待っていると。あの国に本屋が存在するのかは置いといて、会いたいということが伝わればチャンスはあるはずだ。
次の便まで五日もあったので、チケットやらホテルやら手配し終えたら、日常が戻った。何が日常なのかいまいちわからなかったが、その五日間はいたってシンプルな生活だった。私はあの公園のパン屋でアルバイトを始めた。すぐに旅行に行くとことも承知の上でおじさんは雇ってくれた。ギルバートがどんな子か聞くついでに、ルイのことを知っているか尋ねた。
「まあ噂は前からあったよ。とても頭の良い子らしい」
そう、あの子はいわゆる神童なのだ。犬を殺したとしてもそれはサイコパスというわけではないと私は思っている。純粋に関心があっただけ。だから1回で終わっている。習得したから。でも、いわゆるハッキングやプログラミングのスキルは誰に教わったのだろうか。親が興味を持たせるには早すぎる。勝手に?そんな幼少期に古本屋と出会う機会があったのだろうか。
「後継ぎが出来ないから養子を取ったという話も聞いたことがある」
「え」
実の親じゃないのか。妙に大人びていて落ち着いたあの雰囲気が愛情不足が原因なのだとしたら、それは道を軌道修正できる可能性があるということだろうか。彼の本当の望みを叶えることができれば。
「参考になったかね」
おじさんが言うので、私は我に返って恐縮した。
「すみません。変なこと聞いちゃって」
情報通のおじさんに近づいたわけ。わかっていて相手してくれてたのかな。
アルバイトの分際で、パンを焼くおじさんを見ながら日本で食べたソーセージパンをリクエストした。なんだそれは。と言うので、ロールパンの一種でソーセージを巻くのだと言ったら、自宅からソーセージを持ってきて作ってくれた。それをもらって帰り皆で食べたら急に日本が懐かしくなってしまった。
「ね、落ち着いたら日本にも旅行に行こうよ。今度はみんなでさ」
アニーも子供たちも賛成してくれた。楽しみが出来た。別にパンを食べに行くわけじゃないけど。北海道とか沖縄とか全国を周るのも興味深い。そうやって普通の家族は日々を過ごしていくのかな。仕事に家事に育児。どこに犯罪を犯す暇があるのだろう。
明日はいよいよルイ奪還作戦の実行だ。変な胸騒ぎはする。余計なことをするのも自己満足にすぎないのかもしれない。でも、このままでは普通の暮らしなんてできっこないからやるしかないのだ。アニーもそれは理解してくれているはず。皆も。
「なるべく早く帰ってきてね」
皆に見送られて家を出るとき、この家にはこんなに人が住んでいたのだと改めて驚いた。家族。自分がこのパズルのピースの一つになっているかどうか、皆の顔をみて確認した。ここにルイもはまれば完成すると信じて空港へ向かった。
飛行機に乗り込んで、空席の目立つ機内を見渡した。
「は?」
「おう」
後ろの方に、サムとケイがすでに座っていた。なんで。
「久しぶりに休暇がとれたんでちょっとした旅行さ」
確かに、現地を知っている二人が居てくれたら心強いけれど、大丈夫だろうか。不安がよぎる。誰にも死んでほしくないし、ルイに殺人までさせられない。言っても子供なのだから気にするところはそこではない。彼を支えている人物がいるかもしれないが、アニーがそれは否定した。身一つであそこを出て、仮にどこかの家庭に入り込んだとしてもパソコンでメールを送る以外にやれることはないはず。私たちに構ってほしいだけだと。
数時間で終わらせるつもりだ。ルイを説得できなくても、飛行機に乗せる。それだけのことだ。大人四人と子供一人。勝敗といえることでもない。大丈夫。出てこい。もし神童という仮面をかぶった悪魔だったとしても、小悪魔に過ぎない。
アニーと繋いだ手に汗がにじんできたのがわかる。思わず、手を離したらアニーが目を開けた。
この人とこうやって間近で視線を合わせて、気づいてしまった。ルイも同じ目の色なのだ。ふふ。やっぱり大丈夫。自分に言い聞かせた。
空港に降り立って、休暇中の警官二人が進む方へさりげなくついて行った。二人は現地のタクシーに乗り込んでいたが、私たちはあらかじめ用意しておいた車で追いかけた。この国ではお金さえかければ何でもできる。サムたちが塔のあるあの場所へ向かうために道をそれたところで、私たちは直進してなるべく人気のない方へ車を進めた。
削れた山の上に一軒の家が見えた。
「あそこまで行ける?」
「その前に、あれは何だ」
アニーが言うので見てみると、こじんまりした小屋が道路沿いにあった。看板に「本」のマークがある。
「本屋?」
まさか。車を止めて小屋の前に立った。とってつけたように本の絵が描かれているだけで、中は普通の倉庫の様だった。隙間から中を除くと、何か人間の足のようなものが見えた。嫌な予感がした。アニーにも見てもらったが、彼は無言で私を連れて車に戻った。
「二人死んでるな」
「まさか、あの子がやったのかな」
そのまま、山の上を目指した。その一軒家は崖っぷちに建っていた。眺めが良さそうだった。玄関をノックしたが、誰も出てこない。さっきの遺体はここから運ばれてきたのだろうか。子供一人では絶対に無理だ。いや、無理ではないか。こんな誰もいないような場所なら何日かかければ不可能ではないかもしれない。アニーがドアを蹴破ったので中に入った。
窓からの景色は最高だが、高所が苦手な人にはとてもじゃないけど住めないだろう。人の気配はない。テラスからみると、下に何があるのかもわからないくらい絶壁だった。さすがに怖い。
「あ」
遠くに、あの塔が見えた。ケイたちは無事だろうか。電波が悪いので連絡が取れない。あそこからルイがこの家を見ていたのなら、ここに滞在していた可能性は高い。
「おい、落ちるなよ」
アニーに言われて中へ戻ろうと振り返ると、ルイが立っていた。
「ルイ」
私が言うと、アニーがいつの間にという感じでこっちをみた。ルイの手には銃があった。
「ユキ久しぶり」
「迎えに来たよ。一緒に帰ろう」
「僕の居場所なんかないでしょ」
「お前は俺たちの家に来るんだ」
アニーが会話に入ってきた。
「黙っててくれない」
ルイが急に振り返りアニーに銃を向けて引き金を引いた。私は後ろからルイの手を蹴り上げた。が、かすめただけになってしまった。
銃声が響いた。瞬間、ルイの銃口が私に向けられた。アニーは無事だ。確認するとルイを見た。
「こんなところで一人いつまでいるつもりなの」
「わかんない」
「一緒に帰ろう、私とやりたいことをしよう」
「やりたいこと?」
「何がしたい?」
ルイは笑いながら言った。
「ねえ、そんな嘘つくのやめてよ」
「嘘じゃない」
「僕を殺すつもりできたんでしょ」
「違う」
ルイが私の後ろを見ている。まずい。このテラスには柵も何もない。簡単にダイブできるのだ。
ここの夫婦はあの小屋で殺されたのだと気づいた。この家で死んだのなら、ここから落とせば簡単に処分できる。
「まさか、私がメッセージを送ったから殺した?」
「うん、邪魔だったから」
ああ、また私が殺したようなものだ。そっとしておけば良かったのだろうか。もうだめだ。この子はここで終わった方がいいかもしれない。じりじりと私の方へ来る彼をどうすることもできずに、私はテラスの端へ追い込まれてしまった。これではアニーも手出しできない。最悪、二人とも殺されてしまう。
「どうしたの」
「ルイ」
私は片目でアニーを見た。私がこの子を救いに来たことは知っているはず。
「アニー、約束守れないかもしれないけど、もう二人いるから大丈夫でしょ」
「何?」
ルイが私に体当たりした瞬間、私は思い切り彼を突き飛ばした。ルイがアニーの腕の中にすっぽり収まったのを見ながら、私は落ちた。
現場にダンがきていたので、許可を得て塔に向かった。エレベーターは壊れてしまったらしく、代わりに梯子がかけられていた。よじ登るよりは断然楽だ。俺とケイはてっぺんまで行くと、あの時とは少しだけ変わった、死体が無くなっているだけの部屋へ入った。ユキに言われて、ここから見える民家が無いか、確認しにきたのだが遠くに山が見えるだけで何もない。
「空振りか」
そうつぶやくと、ケイが望遠鏡を渡してきた。
「見てみろ」
言われた方を覗くと、削られた山の側面に建っているかのような家が見えた。民家か。まさかあそこに居るのだろうか。
「とにかく行ってみるか」
「ああ」
ちょっとまて、あれはユキじゃないのか。良く見えない。ケイに望遠鏡を返した。
「まずいぞ。あいつ、ガキと対峙してやがる」
数秒もしないうちに、ケイが叫んだ。
「あいつ」
梯子を下りて、車に乗り込んだ。ケイがいら立っている。
「あのガキ。ユキを道連れにして飛び降りやがった」
だが、結果的に彼女だけが落ちた。ということだ。はっきりとしたことがわからないまま山へ急いだ。やはり、ただのガキじゃなかった。あいつの読みは外れていたということか。アニーは何してた。あの野郎。
何が起こったんだ。ルイを羽交い絞めにしながら俺はユキを呼んだが返事はない。勘弁してくれよ。こんなガキの面倒まで押し付けて死んだりするなよ。だがここから落ちたら生きてるかどうか、確かめようもないじゃないか。
とにかく、こいつを先にひねりつぶそうとしたが、出来なかった。失神させて近くにあった木箱に入れて蓋をした。テラスの端まで行って下を見た。何も見えない。
「嘘だろ」
俺は途方に暮れていた。こんな最後ってあるのだろうか。まさか。箱の上に座って茫然としていると、サムとケイがやってきた。
「どうなってる」
俺は答えられない。
「おい」
ケイがテラスへ出て絶句している。
「なんでこんなことに」
「ガキは?」
かろうじて俺は下に目線を下げた。サムは溜息をついて頭を抱えている。俺たちは無力だ。これからどうすればいいんだ。帰るだけなのか。この悪魔を連れて?
「冗談だろ」
ケイが俺を止めようとするが、俺は引かなかった。とりあえずこの崖を下りてみることにした。サムがダンからロープを借りてきてくれた。もっとちゃんとしたものなら1時間ほどで届くらしいが、1時間も待っていられなかった。
「引き上げはまかせた」
最悪、こんな命綱なんかぶった切ってくれてもいい。死んだ後のことなんかどうでもいい。正直、死んだあいつを引き上げに行くことになるのかと思ったら本気で自分も死にたくなった。
「あれ、もしかして死ぬのかな」
どれだけ岩肌を地面に垂直に落ちたかわからない。でもツタのようなものが生えている部分でかろうじて落下せずに途中で引っかかっている自分を感じた。これ以上落ちないのは私がつかまっているからだが、もう手の感覚が無い。あそこまで上る気力もない。アニーもさすがに今回は諦めてくれたかもしれない。
なんで、つかまってるいんだろう。私。死にたくないのかな。下から尊が呼んでいるような音がする。なんで尊は私に優しくしたのだろう。でも最後は私を置いて逝ってしまった。私は優しくなんかないけど、今、皆を置いて逝こうとしているのかな。それはまずいかな。アニーに子供たちを押し付けて。これじゃアニーは一生、結婚できないじゃない。そんなこと望んでないのに。それに、約束があるし。
「しょうがない」
独り言をいってから、手に力を込めた。このツタは下手したら切れそうだ。何とか岩の突起に指を乗せて、少しずつ上にずらしていった。ものすごく長い時間、ロッククライミングしているように感じた。もう限界だ。何やっているんだか。バカバカしい。あんなに高いところが好きで、そこから落下することに憧れてきたのに。今がチャンスなのに。
そう思った瞬間、手の力が抜けて体が岩から離れた。ふわっと体が浮いたようになったその感覚を最後に楽しもうとしたら、手首に痛みが走った。目を開けるとアニーがいた。ああ。最期にこんな幻覚をみるなんて、私は本当にこの人を愛してたのかもしれない。申し訳ない気持ちだけであんな約束までしたわけじゃない。
「おい、そっちの手でロープつかめ」
はっきりとした声が聞こえて我に返った。
「せっかく、いい夢がみられそうだったのに」
私がつぶやくとにかっと笑って彼が言った。
「俺は高所恐怖症になりたくないから早く上を向かせてくれ」
宙づり状態で私を掴んでいるので、相当辛いようだ。
「怪我してない?」
「こっちのセリフだ。自分の心配しろ」
そう言って状態を整えると、力強い腕で私を抱えてくれた。合図が上に伝わったのか、ゆっくりと上昇していった。何時間も経ったように思えたが、実際には数十分くらいだったようだ。テラスに引き戻され、3人の男性が引き上げてくれていたのを見届けると、自分の手が血まみれなのに気づいて吐きそうになった。これ当分シャワーも無理じゃないか。改めて絶望の淵に立たされた感じがして言葉が出なかった。
手を悲しそうに眺めている私を見て察したのか、ケイが言った。
「風呂ぐらい俺が入れてやるから心配すんな」
「おい」
アニーが何か言いかけたが、彼も相当疲弊していたらしく二人とも無言で車に乗り込んだ。
終わってみれば計画通り数時間でこのミッションは終了した。ルイを家へ引き取ることは叶わなかった。彼は病院へ収容されておそらく一生そこにいることになるのだろう。あとは親に任せるしかない。養子とはいえ彼らには責任がある。少なくともルイはもう一人じゃない。
私は、両手が使えない私の世話を焼くことに幸せを感じてくれている人たちに囲まれて数日過ごすことになる。たまにはそういう日々もいいかもしれない。だが体は無理だけど頭くらい使わせてもらおうと、カジノでバイトすることにした。さすがにパン屋は無理。いかさまは出来ないと主張するアニーの言葉を確かめてみたかった。合法だから今まで摘発もされずにやってこられたのは間違いない。
「裏で微妙に操作することくらいはやってるでしょ」
ボブに付き添われて、アルバイトのふりをして店内をうろついていた。一人で大丈夫なのに、やはり心配なのだろうか。ここほど安全な場所などないのに。入店には厳重なチェックがあるし、変なものは持ち込めない。支配人はどこだろう。悪事を見逃してもらえているそいつがどんな人か見ておきたかった。
「あいつですよ」
ボブに言われてラウンジの方を見ると、アニーと同じくらいの年齢と背格好の男がいた。
「あれ」
ギルバートが行くはずだった施設にいた男だ。なるほど。妙に納得してしまった。
「こんにちは」
私が声をかけると、その男は立ち上がって私のところに来た。
「これはこれは」
良い人のレッテルを貼られたくない人種も世の中にはいる。悪ぶっているくせに施設に寄付とか。でもそのわりには評判の悪い施設だった。誰が本当の悪人なのだか。そんなことどうでもいいか。居心地の良い施設なんてあったら、子供全員そこに居られたらいいだけになってしまう。早く出ていきたいと思えるようでなければ子供も育たないでしょ。
「ボスから目を離さないように言われたので、今日はお供しますよ」
そういって、支配人とボブと3人で店内を歩いて回った。
「なんやかんやと一日に数回はトラブってますよ。こういうところなんで」
客同士のいざこざやディーラーへの暴力などは絶えないそうだ。しかもヤクザだしね。声には出さなかったが、危険な香りがプンプンしていた。
「ちょっと、何やってんのよ」
女の声が響き渡った。支配人がボブに目配せするとボブが女の方へ向かった。半分夫婦喧嘩のようなものだ。だいたい、こんなところで一攫千金というか、儲けようと思って来る方がどうかしている。微笑ましくみていたら、支配人がいきなり私の顔を掴んでキスしてきた。は?
人の気配を感じて、とりあえず彼の成すがまま、大人しくしていた。
「おい」
男の声だ。
「取り込み中悪いが、今日ボスは来ていないのか」
ようやく顔が離れたが、支配人は至って冷静に男に向き合った。
「お前、何しに来たんだ。ボスはこんな現場には来ない」
「だがボスの女が来てるだろう」
「知らん。明日来るとは聞いているが」
支配人が、私を背後に隠すのでそれに従った。
「お前たちのやらかしたことは犯罪だ。追放もやむを得ないだろうが」
支配人は強気だ。逞しい。というか、どうやらこの男はサムを殺そうとした3人の兄貴分の様だった。私が誰かわかったらまずい。支配人もそう思ってくれたようだった。
演技の下手なアニーがいなくて助かった。そう安堵している間もなく、男はどうやって持って入ったかわからないが、銃を出して「とりあえずお前も殺す」と言い、支配人に向けて発砲した。
私は、何故そうしたかわからない。そいつが銃を出す瞬間に支配人の前に出た。私なんかのために誰かがこれ以上死んだら、殺されたら、もう私は生きていけないし、幸せになんかなれるわけがない。支配人はアニーの腹心だ。私よりかは生きている価値はあるでしょう。これでいい。
銃弾は私の胸部に命中した。その後のことは、まったく覚えていない。いや、ボブが男を打ち抜いたのをみた。男は倒れ、私も倒れた。支配人の腕の中で、彼をアニーと錯覚していたかもしれない。
「ごめん、結局こうなっちゃって」
そうつぶやくと、私は今度こそ死んだ。
支配人は血まみれだった。何故こうなったのか状況が理解できないまま、彼女を抱きしめていたらしい。すぐに病院へ運ばれたが、俺が着くころにはもう医者も何もすることが無い状態だった。俺もいない、俺の女もいない、その状況で支配人に銃口を向けた男は、実際は真の復讐の相手に弾をぶち込んだことにも気づかずに死んだ。サムもケイもあっけにとられて、このエンドに放心状態だった。
支配人は正気を失っていて、ひたすら俺に「すみません」と連呼している。だが俺は誰も責めるつもりはない。あいつならやりそうなことだ。あいつはいつだって命を絶つ準備ができているのだ。俺がいるのに。子供たちもいるのに。本当に無責任なやつが。イライラしてきた。今度こそ、本当に鎖でつないで家から一歩も出すまいと誓った。生きていたらの話だが。
死んでしまったら、支配人も死ぬだろう。あいつも施設の出身で俺が拾ったようなものだ。ユキと似ているし、気も合うだろう。だからこそ今回あいつはとっさに庇った。それだけだ。あいつは命の恩人という立場を確立していく。支配人は俺に対してもそうだが、あいつにも一生の忠誠を誓うことになる。だから頼む。死なないでくれ。俺の子供を産んで一緒に育てるという約束を果たせ。
死ぬわけがないと思い込んできた女の命が消えそうになって、俺は恐怖を感じている。こんなにあっけないものなのだろうか。わけもわからず死んでいくやつはたくさんいる。死んだもの勝ちだ。残されたものはどうすればいいのだ。そうやって人は消えていく。いざ自分に廻ってくるとやり場のない怒りがこみあげてくる。
子供たちも、ヘタレもどこから聞きつけたのか来やがった。なんなのだ。本当に死ぬとでもいうのか。弾も取って輸血もして、心臓はまだ動いているのだ。死ぬわけがない。
先生がやってきた。
「ご存じでしたか。奥さん妊娠してますよ」
それを聞いて、俺は泣き崩れた。泣くのは初めてのような感覚だった。この感情は喜びなのか悲しみなのか、それさえもわからなかった。
気づいた時には、私は施設にいてそれまでの記憶が無くなっていた。生まれた時から家族などいなかったような気分だったし、実際、そうでもなければ施設なんかに入れられないと思っていた。何故か尊もいて、私はすでに一七歳だったからすぐに卒業した。普通に就職して生きていくはずだったが、尊が大学に行けと言ってくれて、それで大学にも行った。一緒に暮らしていたけど普通に恋愛もしたし、女子大生をしていた。ただ、アルバイトとして尊と一緒にいろいろと仕事をするうちに、いつの間にか付き合うようになった。兄妹から恋人になってからは、自分でも不思議なくらいに彼のことを信用できるようになった。
今思えば、あの古本屋に全てをコントロールされていたわけだが、尊が自由を求め始めた頃から方向が変わった。もうそんなことはどうでも良い。高所から落ちることでまた流産することになるかもとあの時は少し後悔した。でも妊娠したかもなんて口にしたらこのミッションは実行できなかったから。せっかく無事に生きて帰って来たのに、まさかこんな安全なところで殺されることになるなんて。
でも、これで良かったのかもしれない。結局、私は尊に利用されていただけかもしれないし、アニーだって単に仲間を増やしたいだけかも。私じゃなくても。どうせいつかは死ぬのになぜ生きるのだろう。子供なんかいたらろくな人生送れないじゃない。ああ。せめて日本の温泉宿でのんびり温泉に浸かってみたかったな。もしこの夢が覚めたらそうしよう。
「まだ寝てるの?」
ふと目が覚めると畳の上に置かれた座布団の上でうたた寝していた。
「あれ、何時」
「十七時だから、食事の前に風呂入ってくれば」
「うん」
「まったく、飛行機の中で仕事なんかするからだよ」
起き上がって周りを見渡すと、子供たちがボードゲームをしている。
「あ、テリーもお風呂入ったんだ」
「ああ、みんなまとめて俺が入れてきた。温泉、良かったぞ。さすが日本だな」
「食事、何時からだっけ」
「十八時だから、ゆっくり温泉に浸かるのは明日だな」
「だね、行ってくる」
そう言って私は部屋を出た。まだ頭がボーっとしている。浴場へ行くと、人がいっぱいだ。
とりあえず、体を洗うだけにするか。そう思って、さっさと体を洗った。でも少しくらい入ろうと、人の合間をぬって露天風呂の方へ向かった。
「さむ」
急いで湯に浸かるとホッとした。はあ。外の景色を見ているといくらでも浸かっていたい気分だ。明日か。明日が楽しみになるなんて。ちょっと前の私なら、そんな希望とか明日とか、前向きな言葉は想像もしていなかったろう。アニーに感謝する以外、もう私にできることはない。あ、約束も果たしたしね。末永く今が続けばそれでいい。ある意味、いつ死んでももう大丈夫。今度こそ。
名残惜しく風呂場から出て急いで部屋に向かった。
廊下でサムとケイにすれ違った。
「あれ、夕飯どこだっけ」
「なんとか広間だろ。早く来いよ」
「ああ」
今宵はあの二人の物語でも聞きたいものだ。
気分よく部屋に戻ると、本当に休む間もなく今度は食事処へ連れ出された。
「部屋の方が良かったんじゃない」
私が言うと、アニーが笑った。
「いやいや、部屋の中を汚されたくないだろ」
「たしかに」
私は二歳の息子を抱えて、忘れ物が無いかバッグを確認した。アニーは三人の食べ盛りの子供を促して廊下を歩いていた。なんだか大家族だな。全員私が産んだと思われているかも。なんて妄想しながら席に着いた。サムたちが居てくれて私もアニーも大助かりだ。珍しい日本料理を皆で食べる。
なんか夢みたいだった。そう、こういうのに憧れていたのかもしれない。皆がそろって。好きな人たちで、信用出来て、信頼されて、嘘なんか何もない。こういうの。幸せっていうのかな。私なんか絶対に経験できないと思っていた夢。自然と涙がこぼれた。そんな私に気づかないでみんな食事に夢中だ。ふふ。おかしい。
突然、私の心臓の音が聞こえなくなった。
静かな、というのは違う。無だ。いよいよ尊に会える。やっとその時がきた。